浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
浄土真宗本願寺派 福岡組(ふくおかそ)の情報配信所へようこそ。
新mp3法話 第47集 ①浄満寺 井浦智眼 ②真福寺 速開正澄
mp3法話の第47集をお届けいたします。
法話ご提供は以前テレホン法話として長い間親しんでいただいておりましたものを、インターネットに置き換えて継続しておりますものですが、今年度(4月)より、音声に加え、文字(テキスト)でもご覧いただけるようになりました。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第47集 その1 「花まつり」
第47集 その1 「花まつり」 PDF版ダウンロード
浄満寺 井 浦 智 眼
仏様のおはなし新シリーズ 第47集 その2 「携帯や節度を欠く若者」
第47集 その2 「携帯や節度を欠く若者」 PDF版ダウンロード
真福寺 速 開 正 澄
◎広報部
法話ご提供は以前テレホン法話として長い間親しんでいただいておりましたものを、インターネットに置き換えて継続しておりますものですが、今年度(4月)より、音声に加え、文字(テキスト)でもご覧いただけるようになりました。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第47集 その1 「花まつり」
第47集 その1 「花まつり」 PDF版ダウンロード
浄満寺 井 浦 智 眼
仏様のおはなし新シリーズ 第47集 その2 「携帯や節度を欠く若者」
第47集 その2 「携帯や節度を欠く若者」 PDF版ダウンロード
真福寺 速 開 正 澄
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第47集 その1 「花まつり」
4月8日は「花まつり」、お釈迦様の誕生日をお祝いする行事として毎年、全国の寺院で大切に行われています。いまからおよそ2500年前にお生まれになったお釈迦様の誕生の姿を形取った、誕生仏に甘茶注いでお祝いいたします。それは、あらゆるいのちを教え導くお釈迦様の誕生に、天地が感動して甘露の雨を降らせたという言い伝えに始まるようです。
お釈迦様は、生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられています。この言葉は、唯だ“私ひとりだけが尊い”という意味をあらわしているのではありません。また、他と比べて自分のほうが尊いということでもありません。
この世の中で、みんなそれぞれに、他にはないただひとつの尊い存在であり、一人ひとりかけがいのない尊いいのちをいただいているという意味です。私の「いのち」、私の人生は、私しか生きられません。父母・兄弟・夫婦であっても、誰とも代わることのできない、代わってもらうこともできない、この私の「いのち」のままに尊いというのです。
私たちは、姿や形、能力にも違いがあります。それゆえ、財産や名誉や地位によって、自分と他人とを比べて、いいとか悪いとか、上だとか下だとか無意識に考えてしまうことがあります。
しかし、お釈迦様は、人間は条件や生まれによって尊いのではない。地位や名誉や健康や能力、金銭の有る無しを超えて、そのままで尊い「いのち」と私を見て下さっているのが仏様なのだとお示しになられました。
花は人の心をうつします。ひとつひとつは弱く見えても天地の恵みに支えられて咲きます。人も花と同じように様々ないのちに支えられ、生かされているかけがえのないいのちを生きているのだと気づかされます。
いのちを奪い合い、いのちを軽んじているとしかいいようのない現代社会にあって、私たちは自分自身を深く見つめ、「いのち」の本当の尊さに、めざめていかなければなりません。
仏様の願いは、すべてのものを「いのち」の尊さにめざめさせ、一人ひとりをもらさず平等に救いとることです。「花まつり」を通して、ともに手をあわせ、いのちの尊さに思いをはせ、仏様の願いに耳を傾けさせていただきましょう。
仏様のおはなし新シリーズ 第47集 その2 「携帯や節度を欠く若者」
西日本新聞の「こだま」欄で「携帯や節度欠く若者」という投書が紹介されていました。
「私はぺ―スメ―カ―を入れて一年半になる。街中はスマ―トフォンや携帯電話を扱っている若者たちでいっぱいである。バスや電車の優先席も例外ではない。車内で「優先席では電源を切ってください」と放送があっても、切るどころか無視して夢中になっている。 こうした若者たちは白杖を持った人がいても、高齢者がいても席を代わろうとしない。電車では車掌も見て見ぬふり。優先席で携帯電話を使っていても注意はしない。放送はマニュアルにあるから流しているだけなのかと、思いたくなる。バスでも他の席が空いていても高校生がさっと「優先席」に座ると述べられています。」
ここでは、単にマナ―の悪い高校生や若者について述べてあるように思われるかもしれませんが、それだけではないのです。この方が心臓にぺ―スメ―カをいれられていることが大問題で、もし携帯電話の電波が原因でぺ―スメ―カ―に異常が起こったら、この方の命が危険にさらされる事になるのです。病院でもあたりまえのように携帯電話で話をしている人をみかけます。同じことが言えます。
電車やバスには大勢の人が乗り合わせています。車内には、精神的な病気を抱えている人や肉体的障害のある人もおられるのです。自分たちがどれだけ周りの人たちに迷惑をかけているかきづいていないのです。
「優先席」の優先順位は障害者に高齢者に妊産婦に幼児が優先されます。それを守らないのは、大変傲慢なことです。
このような若者も仏法に出遇うことによって、自ら愚かさにきづかされて、申し訳ないという反省の気持ちが生まれ、恥かしことだと、解らせて頂きます。
私たちの社会は若くて健康な人達だけが優先されるのではなく、弱者といわれる人たちも共に生きているのです。人の命に年齢は関係なく、ともに尊いものなのです。お互いが敬い遇う社会があたりまえになれば、「優先席」など、必要がなくなります。早くそうなることを願っています。
4月8日は「花まつり」、お釈迦様の誕生日をお祝いする行事として毎年、全国の寺院で大切に行われています。いまからおよそ2500年前にお生まれになったお釈迦様の誕生の姿を形取った、誕生仏に甘茶注いでお祝いいたします。それは、あらゆるいのちを教え導くお釈迦様の誕生に、天地が感動して甘露の雨を降らせたという言い伝えに始まるようです。
お釈迦様は、生まれてすぐに「天上天下唯我独尊」と言われたと伝えられています。この言葉は、唯だ“私ひとりだけが尊い”という意味をあらわしているのではありません。また、他と比べて自分のほうが尊いということでもありません。
この世の中で、みんなそれぞれに、他にはないただひとつの尊い存在であり、一人ひとりかけがいのない尊いいのちをいただいているという意味です。私の「いのち」、私の人生は、私しか生きられません。父母・兄弟・夫婦であっても、誰とも代わることのできない、代わってもらうこともできない、この私の「いのち」のままに尊いというのです。
私たちは、姿や形、能力にも違いがあります。それゆえ、財産や名誉や地位によって、自分と他人とを比べて、いいとか悪いとか、上だとか下だとか無意識に考えてしまうことがあります。
しかし、お釈迦様は、人間は条件や生まれによって尊いのではない。地位や名誉や健康や能力、金銭の有る無しを超えて、そのままで尊い「いのち」と私を見て下さっているのが仏様なのだとお示しになられました。
花は人の心をうつします。ひとつひとつは弱く見えても天地の恵みに支えられて咲きます。人も花と同じように様々ないのちに支えられ、生かされているかけがえのないいのちを生きているのだと気づかされます。
いのちを奪い合い、いのちを軽んじているとしかいいようのない現代社会にあって、私たちは自分自身を深く見つめ、「いのち」の本当の尊さに、めざめていかなければなりません。
仏様の願いは、すべてのものを「いのち」の尊さにめざめさせ、一人ひとりをもらさず平等に救いとることです。「花まつり」を通して、ともに手をあわせ、いのちの尊さに思いをはせ、仏様の願いに耳を傾けさせていただきましょう。
浄満寺 井 浦 智 眼
仏様のおはなし新シリーズ 第47集 その2 「携帯や節度を欠く若者」
西日本新聞の「こだま」欄で「携帯や節度欠く若者」という投書が紹介されていました。
「私はぺ―スメ―カ―を入れて一年半になる。街中はスマ―トフォンや携帯電話を扱っている若者たちでいっぱいである。バスや電車の優先席も例外ではない。車内で「優先席では電源を切ってください」と放送があっても、切るどころか無視して夢中になっている。 こうした若者たちは白杖を持った人がいても、高齢者がいても席を代わろうとしない。電車では車掌も見て見ぬふり。優先席で携帯電話を使っていても注意はしない。放送はマニュアルにあるから流しているだけなのかと、思いたくなる。バスでも他の席が空いていても高校生がさっと「優先席」に座ると述べられています。」
ここでは、単にマナ―の悪い高校生や若者について述べてあるように思われるかもしれませんが、それだけではないのです。この方が心臓にぺ―スメ―カをいれられていることが大問題で、もし携帯電話の電波が原因でぺ―スメ―カ―に異常が起こったら、この方の命が危険にさらされる事になるのです。病院でもあたりまえのように携帯電話で話をしている人をみかけます。同じことが言えます。
電車やバスには大勢の人が乗り合わせています。車内には、精神的な病気を抱えている人や肉体的障害のある人もおられるのです。自分たちがどれだけ周りの人たちに迷惑をかけているかきづいていないのです。
「優先席」の優先順位は障害者に高齢者に妊産婦に幼児が優先されます。それを守らないのは、大変傲慢なことです。
このような若者も仏法に出遇うことによって、自ら愚かさにきづかされて、申し訳ないという反省の気持ちが生まれ、恥かしことだと、解らせて頂きます。
私たちの社会は若くて健康な人達だけが優先されるのではなく、弱者といわれる人たちも共に生きているのです。人の命に年齢は関係なく、ともに尊いものなのです。お互いが敬い遇う社会があたりまえになれば、「優先席」など、必要がなくなります。早くそうなることを願っています。
真福寺 速 開 正 澄
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