浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
浄土真宗本願寺派 福岡組(ふくおかそ)の情報配信所へようこそ。
新mp3法話 第50集 ①萬行寺 七里順照 ②専立寺 藤 真哉
mp3法話の第50集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第50集 その1 「人生の課題」 音声版ダウンロード
第50集 その1 「人生の課題」 PDF版ダウンロード
萬行寺 七 里 順 照
仏様のおはなし新シリーズ 第50集 その2 「優しい歌」 音声版ダウンロード
第50集 その2 「優しい歌」 PDF版ダウンロード
専立寺 藤 真 哉
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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仏様のおはなし新シリーズ 第50集 その1 「人生の課題」 音声版ダウンロード
第50集 その1 「人生の課題」 PDF版ダウンロード
萬行寺 七 里 順 照
仏様のおはなし新シリーズ 第50集 その2 「優しい歌」 音声版ダウンロード
第50集 その2 「優しい歌」 PDF版ダウンロード
専立寺 藤 真 哉
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第50集 その1 「人生の課題」
皆さんは誰かと約束をする時に、「絶対」「必ず」といった言葉を使いませんか?
はたして私達の人生において、絶対や必ずといった確かなものはあるのでしょうか。
仏教をお説きになられたお釈迦様は、「諸行無常」=「すべてのものは、瞬間々に変化し続けているということ」と、「諸法無我」=「すべてのものには、永遠に変わらない実体(我)は無い」と、お示し下さっています。
残念ながら私達に確かなものは、一つもありません。
若さもいつまでも続きません。いくら拒んでも毎年歳をかさね、老いている事をじわじわと感じてきます。
健康はどうでしょう?健康も確かなものではありません。一たび病(やまい)がおそいかっかてくれば、昨日までの健康がうそのように、病床の人とならなければなりません。
この大切な命でさえ、いつかはつゆの雫(しずく)が落ちていくように消えていくのです。
日々の生活に追われて忙しく動きまわっている時、私達はこの老・病・死を忘れてしまいます。
ですが忘れていても、老・病・死がなくなる事はありません。
そこにどうしようもない不安の根があります。この不安と、どう向かい合い、どう克服するのかが、私達が授かった限りのある命、人生の大きな課題ではないでしょうか。
この問題に向かいあい直視する勇気がなく、一生それらの不安から目をそらして生きていこうとされる方もいます。
しかし、どれほど目をそらそうが、逃げまわろうが、老・病・死は私達を見逃してはくれません。
その事を、私達は百も承知のはずです。よく知っていながら目をそらし、逃げ回るとしたら、これほど空(むな)しい人生はありません。
浄土真宗をお開きになられた親鸞聖人様は、この問題の解決に阿弥陀仏のお救いの教えをお示し下さいました。
それは、阿弥陀仏という仏さまが「すべての人を必ず救うという願い(本願)をたて、南無阿弥陀仏の言葉(名号)となり過去・現在・未来へとはたらきかけてくださっている仏さま」なのです。
大きな課題を解決出来ないこの私は、阿弥陀仏の願いに耳を傾け、南無阿弥陀仏のはたらきに安心し、勇気づけられ、自らはやれるだけの事を精一杯やって、せっかくの人生を行き抜こう。
そうすれば、どこで・どのような形で一生を終わろうとも、南無阿弥陀仏のはたらきによって、間違いなく救われる身となり、阿弥陀仏の国(お浄土)に仏さまとして生まれさせて頂けるのです。
仏様のおはなし新シリーズ 第50集 その2 「優しい歌」
春吉の専立寺・若院がお話しさせて頂きます。
Mr.childrenというバンドの「優しい歌」という歌を御存知でしょうか?
「誰かが救いの手を 君に差し出してる だけど今はそれに気付けずにいるんだろう」
これは冒頭の歌詞です。この歌詞の部分が私は大変大好きで孤独感を感じた時は、いつも心の中で歌っています。この歌詞を思う時、私は同時に阿弥陀仏の事も思うのです。
私達は苦難に遭う時、「どうせだれも自分の事などわかってくれない」とか「自分は独りぼっちなんだ」と塞ぎこんでしまい、周りと自分とを隔離してしまいます。「自分はこんなに頑張っているのに…」「誰も自分を認めてくれない」と考えてしまいます。
私達には煩悩というものがくっついているので、自分の思い通りにいかない世界を、自分の思うように・自分が幸せになるようにしようとするのです。でもそうはいきません。だから、「なんでうまくいかないのだ」と悩み苦しむのです。
阿弥陀仏はそんな私達をみて「なかなかうまくいかなくてさぞ辛いだろうね」「あなたが頑張っているのは知ってるよ」「あとは私に任せてね」と語りかけてくださりいつも私と共に生きてくださいます。悲しい時は共に悲しみ、苦しい時は共に苦しみ、うれしい時は共に喜んでくださる、それが仏なのです。
そして、私達にすべてつながり、かかわり合い存在することを「縁起」の法として教えてくださるのです。「決して一人で生きているのではないのだ。自分の気付かない大勢の陰の力があって、今があるのだ」と。
誰かの支えがあって私があるのです。そして、また私が誰かの支えとなっていく、私達は常にお互いを支えあいながら生きているのです。自分は気付いていなくても、支えてくださる大勢の人や物に感謝し、自分さえ良ければいいという傲慢な生き方を戒めながら日々、歩みたいことです。
皆さんは誰かと約束をする時に、「絶対」「必ず」といった言葉を使いませんか?
はたして私達の人生において、絶対や必ずといった確かなものはあるのでしょうか。
仏教をお説きになられたお釈迦様は、「諸行無常」=「すべてのものは、瞬間々に変化し続けているということ」と、「諸法無我」=「すべてのものには、永遠に変わらない実体(我)は無い」と、お示し下さっています。
残念ながら私達に確かなものは、一つもありません。
若さもいつまでも続きません。いくら拒んでも毎年歳をかさね、老いている事をじわじわと感じてきます。
健康はどうでしょう?健康も確かなものではありません。一たび病(やまい)がおそいかっかてくれば、昨日までの健康がうそのように、病床の人とならなければなりません。
この大切な命でさえ、いつかはつゆの雫(しずく)が落ちていくように消えていくのです。
日々の生活に追われて忙しく動きまわっている時、私達はこの老・病・死を忘れてしまいます。
ですが忘れていても、老・病・死がなくなる事はありません。
そこにどうしようもない不安の根があります。この不安と、どう向かい合い、どう克服するのかが、私達が授かった限りのある命、人生の大きな課題ではないでしょうか。
この問題に向かいあい直視する勇気がなく、一生それらの不安から目をそらして生きていこうとされる方もいます。
しかし、どれほど目をそらそうが、逃げまわろうが、老・病・死は私達を見逃してはくれません。
その事を、私達は百も承知のはずです。よく知っていながら目をそらし、逃げ回るとしたら、これほど空(むな)しい人生はありません。
浄土真宗をお開きになられた親鸞聖人様は、この問題の解決に阿弥陀仏のお救いの教えをお示し下さいました。
それは、阿弥陀仏という仏さまが「すべての人を必ず救うという願い(本願)をたて、南無阿弥陀仏の言葉(名号)となり過去・現在・未来へとはたらきかけてくださっている仏さま」なのです。
大きな課題を解決出来ないこの私は、阿弥陀仏の願いに耳を傾け、南無阿弥陀仏のはたらきに安心し、勇気づけられ、自らはやれるだけの事を精一杯やって、せっかくの人生を行き抜こう。
そうすれば、どこで・どのような形で一生を終わろうとも、南無阿弥陀仏のはたらきによって、間違いなく救われる身となり、阿弥陀仏の国(お浄土)に仏さまとして生まれさせて頂けるのです。
万行寺 七 里 順 照
仏様のおはなし新シリーズ 第50集 その2 「優しい歌」
春吉の専立寺・若院がお話しさせて頂きます。
Mr.childrenというバンドの「優しい歌」という歌を御存知でしょうか?
「誰かが救いの手を 君に差し出してる だけど今はそれに気付けずにいるんだろう」
これは冒頭の歌詞です。この歌詞の部分が私は大変大好きで孤独感を感じた時は、いつも心の中で歌っています。この歌詞を思う時、私は同時に阿弥陀仏の事も思うのです。
私達は苦難に遭う時、「どうせだれも自分の事などわかってくれない」とか「自分は独りぼっちなんだ」と塞ぎこんでしまい、周りと自分とを隔離してしまいます。「自分はこんなに頑張っているのに…」「誰も自分を認めてくれない」と考えてしまいます。
私達には煩悩というものがくっついているので、自分の思い通りにいかない世界を、自分の思うように・自分が幸せになるようにしようとするのです。でもそうはいきません。だから、「なんでうまくいかないのだ」と悩み苦しむのです。
阿弥陀仏はそんな私達をみて「なかなかうまくいかなくてさぞ辛いだろうね」「あなたが頑張っているのは知ってるよ」「あとは私に任せてね」と語りかけてくださりいつも私と共に生きてくださいます。悲しい時は共に悲しみ、苦しい時は共に苦しみ、うれしい時は共に喜んでくださる、それが仏なのです。
そして、私達にすべてつながり、かかわり合い存在することを「縁起」の法として教えてくださるのです。「決して一人で生きているのではないのだ。自分の気付かない大勢の陰の力があって、今があるのだ」と。
誰かの支えがあって私があるのです。そして、また私が誰かの支えとなっていく、私達は常にお互いを支えあいながら生きているのです。自分は気付いていなくても、支えてくださる大勢の人や物に感謝し、自分さえ良ければいいという傲慢な生き方を戒めながら日々、歩みたいことです。
専立寺 藤 真 哉
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