浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第52集 ①明蓮寺 向嶋真也 ②順正寺 古海宗雄
mp3法話の第52集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第52集 その1 「生きる?生かされる?」 音声版ダウンロード
第52集 その1 「生きる?生かされる?」 PDF版ダウンロード
明蓮寺 向 嶋 真 也
仏様のおはなし新シリーズ 第52集 その2 「台なし」 音声版ダウンロード
第52集 その2 「台なし」 PDF版ダウンロード
順正寺 古 海 宗 雄
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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仏様のおはなし新シリーズ 第52集 その1 「生きる?生かされる?」 音声版ダウンロード
第52集 その1 「生きる?生かされる?」 PDF版ダウンロード
明蓮寺 向 嶋 真 也
仏様のおはなし新シリーズ 第52集 その2 「台なし」 音声版ダウンロード
第52集 その2 「台なし」 PDF版ダウンロード
順正寺 古 海 宗 雄
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第52集 その1 「生きる?生かされる?」
私たちは自分で、自分の力で、「生きている」と考えています。そう思えばこそ一日一日に生きがいを感じて頑張ることができるのかも知れません。しかしよく考えてみますと生きるということについて、私自身はどれほどの力があるのでしょうか。
「死」に対して、生きようとする私の意志はどれほどの役に立つのでしょうか。九十年、百年生きてこられた方でも、最後の死に臨んでは自分の意志は何のはたらきにもならないようです。思わざるときに突然の事故で死ぬ人もあれば、死にたくても死ぬことの出来ぬ人もいるのです。
オリンピックの競泳やマラソンなどの競技を見ても、最後のゴールを目指して、死力をふりしぼって記録に挑戦する。
そのことから考えれば九十年、百年と長い人生を生き抜いて来た方は最後の一日、いや、一時間位は自分の意志で、死をひきのばすことが出来てもよいのではないでしょうか。ところがそれが全く出来ません。
仏教は因縁の道理を明らかにします。生きることも因縁であれば、死ぬことも因縁であると説きます。どんなに生きたくても生きる因縁がなくなれば死なねばならないし、死にたくても生きる因縁があれば死ぬことは出来ないのです。
このように考えれば自分で生きていると思っていることは、思い上がりであって、自分の力ではなくいろいろな因縁によって「生かされている」のです。
因縁によっていかされている生命であれば、生きていることの確認できるのは「今」だけです。仏教は今日という日、今という時を大事にして全力をつくして生きることを教えてくれるのです。
仏様のおはなし新シリーズ 第52集 その2 「台なし」
日常よく使われることばの中に「台無し」というものがあります。役にたたなくなることや物事がすっかり駄目になることとして使われます。「台無し」とは、文字通り台が無いということです。台とは蓮華台を指します。蓮華台とは仏さまがおられる台です。浄土真宗の場合では、お木像や絵像のご本尊の阿弥陀様がお立ちになられておられる青い蓮華台になります。ですから、「台無し」
とは蓮華台を持たない生き方でありますから、仏さまの願いを知らずに生きると言えるのではないでしょうか。
以前先輩のお寺のご住職さまにこのようなお話を伺いました。
ご住職さまには幼稚園児の息子さんがおられます。その息子さんがお寺の大事な壷を壊してしまった出来事があったそうです。ご住職さまは壊れた壷を見つけると、壷の置いてある部屋で遊んでいた息子さんを呼ばれました。「○○君。大事にしている壷が倒れて壊れてしまっているが、なんで壊れてしまったのかな」と聞くと息子さんは、首を横にふって「知らないよ」と答えました。
ご住職さまは「おかしいね。地震が起こったわけでもないのに勝手に倒れないと思うが。○○君。あなたはこの部屋に独りでいたのだから。なにか知っているのでは」ともう一度聞きました。また息子さんは首を横にふり知らないという素振りをみせます。そこでご住職さまが「分った。じゃあ貴方のこころのなかの「ののさま」に聞いてごらんなさい」とおっしゃいました。すると息子さんは少し考えて、「お父さん、ごめんなさい。本当は僕が遊んでいて、体を当てて壊してしまいました。」と正直に話されたそうです。
わたしは、阿弥陀さまの願いを聞いて生きることは、このようなことだろうと思うのです。阿弥陀さまは我々がすることに一喜一憂されるのではなく。わたしのことはすべてお見通しになられたその上で、わたしを見過ごすことが出来ない、仏に仕上げてみせると願いを建てて下さいました。こちらが気づかされる以前から、蓮華台の上から立ちっぱなしで呼びっぱなしの阿弥陀さまです。蓮の華のように泥の中に育ちながら、そこに深く根を張り泥に染まらず素晴らしお悟りの華をそこに咲かせたいという願い。蓮華台をもって生きるとは、すべてのいのちの尊さ、あなたのそのままが尊いという阿弥陀さまの願いに気づかされる歩みだと思います。
気づきの無い「台無し」の人生を送ることは虚しいことです。
繰り返し、ご一緒にお聴聞させていただきましょう。
私たちは自分で、自分の力で、「生きている」と考えています。そう思えばこそ一日一日に生きがいを感じて頑張ることができるのかも知れません。しかしよく考えてみますと生きるということについて、私自身はどれほどの力があるのでしょうか。
「死」に対して、生きようとする私の意志はどれほどの役に立つのでしょうか。九十年、百年生きてこられた方でも、最後の死に臨んでは自分の意志は何のはたらきにもならないようです。思わざるときに突然の事故で死ぬ人もあれば、死にたくても死ぬことの出来ぬ人もいるのです。
オリンピックの競泳やマラソンなどの競技を見ても、最後のゴールを目指して、死力をふりしぼって記録に挑戦する。
そのことから考えれば九十年、百年と長い人生を生き抜いて来た方は最後の一日、いや、一時間位は自分の意志で、死をひきのばすことが出来てもよいのではないでしょうか。ところがそれが全く出来ません。
仏教は因縁の道理を明らかにします。生きることも因縁であれば、死ぬことも因縁であると説きます。どんなに生きたくても生きる因縁がなくなれば死なねばならないし、死にたくても生きる因縁があれば死ぬことは出来ないのです。
このように考えれば自分で生きていると思っていることは、思い上がりであって、自分の力ではなくいろいろな因縁によって「生かされている」のです。
因縁によっていかされている生命であれば、生きていることの確認できるのは「今」だけです。仏教は今日という日、今という時を大事にして全力をつくして生きることを教えてくれるのです。
明蓮寺 向 嶋 真 也
仏様のおはなし新シリーズ 第52集 その2 「台なし」
日常よく使われることばの中に「台無し」というものがあります。役にたたなくなることや物事がすっかり駄目になることとして使われます。「台無し」とは、文字通り台が無いということです。台とは蓮華台を指します。蓮華台とは仏さまがおられる台です。浄土真宗の場合では、お木像や絵像のご本尊の阿弥陀様がお立ちになられておられる青い蓮華台になります。ですから、「台無し」
とは蓮華台を持たない生き方でありますから、仏さまの願いを知らずに生きると言えるのではないでしょうか。
以前先輩のお寺のご住職さまにこのようなお話を伺いました。
ご住職さまには幼稚園児の息子さんがおられます。その息子さんがお寺の大事な壷を壊してしまった出来事があったそうです。ご住職さまは壊れた壷を見つけると、壷の置いてある部屋で遊んでいた息子さんを呼ばれました。「○○君。大事にしている壷が倒れて壊れてしまっているが、なんで壊れてしまったのかな」と聞くと息子さんは、首を横にふって「知らないよ」と答えました。
ご住職さまは「おかしいね。地震が起こったわけでもないのに勝手に倒れないと思うが。○○君。あなたはこの部屋に独りでいたのだから。なにか知っているのでは」ともう一度聞きました。また息子さんは首を横にふり知らないという素振りをみせます。そこでご住職さまが「分った。じゃあ貴方のこころのなかの「ののさま」に聞いてごらんなさい」とおっしゃいました。すると息子さんは少し考えて、「お父さん、ごめんなさい。本当は僕が遊んでいて、体を当てて壊してしまいました。」と正直に話されたそうです。
わたしは、阿弥陀さまの願いを聞いて生きることは、このようなことだろうと思うのです。阿弥陀さまは我々がすることに一喜一憂されるのではなく。わたしのことはすべてお見通しになられたその上で、わたしを見過ごすことが出来ない、仏に仕上げてみせると願いを建てて下さいました。こちらが気づかされる以前から、蓮華台の上から立ちっぱなしで呼びっぱなしの阿弥陀さまです。蓮の華のように泥の中に育ちながら、そこに深く根を張り泥に染まらず素晴らしお悟りの華をそこに咲かせたいという願い。蓮華台をもって生きるとは、すべてのいのちの尊さ、あなたのそのままが尊いという阿弥陀さまの願いに気づかされる歩みだと思います。
気づきの無い「台無し」の人生を送ることは虚しいことです。
繰り返し、ご一緒にお聴聞させていただきましょう。
順正寺 古 海 宗 雄
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