浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第54集 ①浄満寺 倉地弘行 ②正覚寺 松尾顕龍
mp3法話の第54集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第54集 その1 「命の尊さ」 音声版ダウンロード
第54集 その1 「命の尊さ」 PDF版ダウンロード
浄満寺 倉 地 弘 行
仏様のおはなし新シリーズ 第54集 その2 「分骨のご縁を喜ぶ」 音声版ダウンロード
第54集 その2 「分骨のご縁を喜ぶ」 PDF版ダウンロード
正覚寺 松 尾 顕 龍
◎広報部●
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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仏様のおはなし新シリーズ 第54集 その1 「命の尊さ」 音声版ダウンロード
第54集 その1 「命の尊さ」 PDF版ダウンロード
浄満寺 倉 地 弘 行
仏様のおはなし新シリーズ 第54集 その2 「分骨のご縁を喜ぶ」 音声版ダウンロード
第54集 その2 「分骨のご縁を喜ぶ」 PDF版ダウンロード
正覚寺 松 尾 顕 龍
◎広報部●
仏様のおはなし新シリーズ 第54集 その1 「命の尊さ」
15年位前から、久留米のある高校で始まった「命の教育」。当時は暴走行為、いじめによる自死など青少年をめぐる事件が社会問題化していた頃でした。若者の、命に対する感覚の希薄さ、自覚になさ、どうしたらいいものかと試行錯誤の末、たどり着いたのがニワトリの飼育から解体までの実習だったと先生がおっしゃっていました。
生徒たちは生まれたばかりの卵を各自受け取った。ふ卵器でふ化を見守り、ひよこがかえると当番制でエサや水やり。「親代わりに育てる楽しさ、やりがい」があった反面、糞の片付けなど、やりがいや喜びばかりじゃなく、つらさ、大変さに向き合って初めて、命の大切さ、尊さ、温かさ、に触れることができた。また食べ物への感謝の気持ちを実感することもできたのです。また、なぜ食事の前に「いただきます」後に「ごちそうさまでした」を言うのかも分かってきたことでありましょう。
私は今、福岡県内の農業高校に勤めていますが、そこでも生物利用科の授業で同じように、ニワトリの飼育から解体までの実習を行っています。その現場を見ますと、生徒と先生との葛藤が手に取るように伝わってきます。「いやだ!」。「できない。無理・・・」。教諭は「目を離すな!」と叱咤し、手を生徒の手の上に重ねた。実習前日に写真を撮った。「思い出に胸がつぶれそうだった。ただただ怖かった。」一人の生徒がそう語った。
解体終了。処理したばかりの肉を水炊きにした。正直箸が進まない。生徒の一人はいった。「初めてのことだったのでとっても怖かった。でも自分たちのために命をくれた事に感謝。この気持ちは、いつまでも大事にしたい」全員が手を合わせた。「ごちそうさまでした」
かって、「仏前で礼拝しなければ食事されてもらえない」という教育を受けた人々がいた。今、都会のレストランで合掌礼拝して食事をするひとがどのくらいいるでしょうか。あまり見受けないのではありませんか。社会が混乱すればするほど正しい教えにお育ていただくことが必要となってきます。南無阿弥陀仏はみ仏のお心を受け取らせていただくただ一つの道であります。お念仏によって、この一瞬一瞬が限りない命に包まれた貴重なものであることに気づかされ、常に自らを振り返り、精いっぱい生かされていくことを願っています。
阿弥陀如来の救いは時代を超えて、人間の根本的課題を目当てにされていますが、私にとっては、この具体的な出来事を縁として、その救いがありがたく受け取れます。表に表れた事件や体験にとどまらず、そこから私の人間性に気づかされ、そこに働く阿弥陀如来の智慧と慈悲を味あわせていただくことを願っています。
仏様のおはなし新シリーズ 第54集 その2 「分骨のご縁を喜ぶ」
最近ご門徒から分骨に関するご相談を受けることが多くなりました。骨を分けると書きますが、文字どおり通常一箇所に納められることが多い故人のご遺骨を、何箇所かに分けて納骨するということです。身内・親戚が離れて居住している、高齢者の身体の負担を考慮してお参りし易い居住地の近くにお墓や納骨堂を構えたいといった事情が背景にあるようですが、「親戚の一部が分骨は故人の身を裂く行為であり、故人が迷うので良くないとのことで反対しています。」といったことを言われた経験があります。これに対しては「阿弥陀如来の本願の働きにより救われてお浄土に還られた故人は決して迷ったりしません。本願のいわれを正しく聴聞したならば、迷っているのは現世に生きている私達のほうだと分かります。」とお答えしました。分骨でバラバラになるのではありません。生前のように目に見える姿形有る存在ではなく、仏と成って、常に私達のそばにおられます。お墓や納骨堂は、亡き人が最後に残された姿形のご遺骨をご縁として、仏と成られた故人を偲びつつ仏縁を喜ぶ、現世に生きる私達のための宗教施設です。お釈迦様のご遺骨である仏舎利は、分骨されて世界の各所に仏舎利塔が建てられています。これはお釈迦様のお墓が一つではなく、たくさん存在するということですが、分けることにより、より一層ご縁を喜ぶ機会が増え、み仏の功徳を皆で分かち合うことができるのです。当寺の先代の住職のご遺骨の一部は、京都の大谷本廟に納骨させていただいておりますが、ご門徒の中にも納骨をされている方々があります。大谷本廟は、宗祖親鸞聖人のご遺骨を納めた祖壇があり本願寺の基礎となった場所です。「宗祖のおそばに」とのことで、多くのご門徒が有縁の方々のご遺骨を分骨されています。分骨を更なる仏縁の広がり、新たな始まりと捉えて、亡き人が還られたお浄土を想いつつ、益々聴聞を重ねたいものです。
15年位前から、久留米のある高校で始まった「命の教育」。当時は暴走行為、いじめによる自死など青少年をめぐる事件が社会問題化していた頃でした。若者の、命に対する感覚の希薄さ、自覚になさ、どうしたらいいものかと試行錯誤の末、たどり着いたのがニワトリの飼育から解体までの実習だったと先生がおっしゃっていました。
生徒たちは生まれたばかりの卵を各自受け取った。ふ卵器でふ化を見守り、ひよこがかえると当番制でエサや水やり。「親代わりに育てる楽しさ、やりがい」があった反面、糞の片付けなど、やりがいや喜びばかりじゃなく、つらさ、大変さに向き合って初めて、命の大切さ、尊さ、温かさ、に触れることができた。また食べ物への感謝の気持ちを実感することもできたのです。また、なぜ食事の前に「いただきます」後に「ごちそうさまでした」を言うのかも分かってきたことでありましょう。
私は今、福岡県内の農業高校に勤めていますが、そこでも生物利用科の授業で同じように、ニワトリの飼育から解体までの実習を行っています。その現場を見ますと、生徒と先生との葛藤が手に取るように伝わってきます。「いやだ!」。「できない。無理・・・」。教諭は「目を離すな!」と叱咤し、手を生徒の手の上に重ねた。実習前日に写真を撮った。「思い出に胸がつぶれそうだった。ただただ怖かった。」一人の生徒がそう語った。
解体終了。処理したばかりの肉を水炊きにした。正直箸が進まない。生徒の一人はいった。「初めてのことだったのでとっても怖かった。でも自分たちのために命をくれた事に感謝。この気持ちは、いつまでも大事にしたい」全員が手を合わせた。「ごちそうさまでした」
かって、「仏前で礼拝しなければ食事されてもらえない」という教育を受けた人々がいた。今、都会のレストランで合掌礼拝して食事をするひとがどのくらいいるでしょうか。あまり見受けないのではありませんか。社会が混乱すればするほど正しい教えにお育ていただくことが必要となってきます。南無阿弥陀仏はみ仏のお心を受け取らせていただくただ一つの道であります。お念仏によって、この一瞬一瞬が限りない命に包まれた貴重なものであることに気づかされ、常に自らを振り返り、精いっぱい生かされていくことを願っています。
阿弥陀如来の救いは時代を超えて、人間の根本的課題を目当てにされていますが、私にとっては、この具体的な出来事を縁として、その救いがありがたく受け取れます。表に表れた事件や体験にとどまらず、そこから私の人間性に気づかされ、そこに働く阿弥陀如来の智慧と慈悲を味あわせていただくことを願っています。
浄満寺 倉 地 弘 行
仏様のおはなし新シリーズ 第54集 その2 「分骨のご縁を喜ぶ」
最近ご門徒から分骨に関するご相談を受けることが多くなりました。骨を分けると書きますが、文字どおり通常一箇所に納められることが多い故人のご遺骨を、何箇所かに分けて納骨するということです。身内・親戚が離れて居住している、高齢者の身体の負担を考慮してお参りし易い居住地の近くにお墓や納骨堂を構えたいといった事情が背景にあるようですが、「親戚の一部が分骨は故人の身を裂く行為であり、故人が迷うので良くないとのことで反対しています。」といったことを言われた経験があります。これに対しては「阿弥陀如来の本願の働きにより救われてお浄土に還られた故人は決して迷ったりしません。本願のいわれを正しく聴聞したならば、迷っているのは現世に生きている私達のほうだと分かります。」とお答えしました。分骨でバラバラになるのではありません。生前のように目に見える姿形有る存在ではなく、仏と成って、常に私達のそばにおられます。お墓や納骨堂は、亡き人が最後に残された姿形のご遺骨をご縁として、仏と成られた故人を偲びつつ仏縁を喜ぶ、現世に生きる私達のための宗教施設です。お釈迦様のご遺骨である仏舎利は、分骨されて世界の各所に仏舎利塔が建てられています。これはお釈迦様のお墓が一つではなく、たくさん存在するということですが、分けることにより、より一層ご縁を喜ぶ機会が増え、み仏の功徳を皆で分かち合うことができるのです。当寺の先代の住職のご遺骨の一部は、京都の大谷本廟に納骨させていただいておりますが、ご門徒の中にも納骨をされている方々があります。大谷本廟は、宗祖親鸞聖人のご遺骨を納めた祖壇があり本願寺の基礎となった場所です。「宗祖のおそばに」とのことで、多くのご門徒が有縁の方々のご遺骨を分骨されています。分骨を更なる仏縁の広がり、新たな始まりと捉えて、亡き人が還られたお浄土を想いつつ、益々聴聞を重ねたいものです。
正覚寺 松 尾 顕 龍
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