浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第55集 妙静寺 笠 賢信「むなしくない人生」
mp3法話の第55集をお届けいたします。
今回は都合により1本のお届けです。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第55集 その1 「むなしくない人生」 音声版ダウンロード
第55集 その1 「むなしくない人生」 PDF版ダウンロード
妙静寺 笠 賢 信
◎広報部◎
今回は都合により1本のお届けです。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
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仏様のおはなし新シリーズ 第55集 その1 「むなしくない人生」 音声版ダウンロード
第55集 その1 「むなしくない人生」 PDF版ダウンロード
妙静寺 笠 賢 信
◎広報部◎
仏様のおはなし新シリーズ 第55集 その1 「むなしくない人生」
「本願力にあいぬれば むなしくすぐる人ぞなき」
これは親鸞聖人がお示しくださった。ご和讃の一部分です
みなさんは死んだらどうなると思うでしょうか?死んだら終わりと思っておられる人もいらっしゃれば。天国へいく。地獄へいく。または、違う命に生まれ変わると考えておられる方もいらっしゃるかもしれません。
私の友人には「死んだら終わり、だから今を楽しく、おもしろおかしく生きなければ損だ」と考える人が多いように思います。
ですがもし我々の人生をスタート地点が生まれたことで。ゴール地点が死ぬことと考え、死を終わりとするならば。その道のりすべても、死んで終りのむなしい人生だといえるのではないでしょうか。
豊臣秀吉というお方が最後に残されたお言葉は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」というものであったと聞いたことがあります。農民の出身から、関白という地位まで上り詰め、地位、名誉、財産あらゆるものを手にしたであろう方が、最後に残した言葉は、「夢の中で夢をみているようなはかない人生だった」という言葉なのです。
私には秀吉さんのような、地位も名誉も財産もないので秀吉さんの本当の気持ちはわかりませんが、死を前にしたとき、自分が積み上げてきたものはなんだったのか?本当に自分の拠り所となってくれるものは何一つなかった。そんな思いが秀吉さんの心の中にはあったんではないでしょうか。
親鸞聖人は、阿弥陀様の「我にまかせよ、必ず救う」という願いを聞かせていただいたなら、死んだら終わりのむなしい人生ではなく、この私もお浄土、仏さまの世界にうまれさせていただき仏とならせていただく命であると、お示しくださいました。
それを私が受け取ったとき。人生のゴール地点が、死んで終わりから、仏とならせていただくという目的へと転ぜられ、この私の生きる「今」という道のり全てが、仏さまとならせていただく道であったと味わうことができるのだと思います。
だからこそ親鸞聖人は「本願力に遇いぬればむなしくすぐる人ぞなき」とお示しくださったんだと思います。
つまりこの私が阿弥陀様の願いを受け取るということが、我々浄土真宗でもっとも大切なことであります。そして、この受け取る場こそ、お寺であり、お聴聞の場です。今年もお聴聞、仏さまの願いを聞かせていただきながら、この人生を歩ませていただきたいと思うことです。
「本願力にあいぬれば むなしくすぐる人ぞなき」
これは親鸞聖人がお示しくださった。ご和讃の一部分です
みなさんは死んだらどうなると思うでしょうか?死んだら終わりと思っておられる人もいらっしゃれば。天国へいく。地獄へいく。または、違う命に生まれ変わると考えておられる方もいらっしゃるかもしれません。
私の友人には「死んだら終わり、だから今を楽しく、おもしろおかしく生きなければ損だ」と考える人が多いように思います。
ですがもし我々の人生をスタート地点が生まれたことで。ゴール地点が死ぬことと考え、死を終わりとするならば。その道のりすべても、死んで終りのむなしい人生だといえるのではないでしょうか。
豊臣秀吉というお方が最後に残されたお言葉は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」というものであったと聞いたことがあります。農民の出身から、関白という地位まで上り詰め、地位、名誉、財産あらゆるものを手にしたであろう方が、最後に残した言葉は、「夢の中で夢をみているようなはかない人生だった」という言葉なのです。
私には秀吉さんのような、地位も名誉も財産もないので秀吉さんの本当の気持ちはわかりませんが、死を前にしたとき、自分が積み上げてきたものはなんだったのか?本当に自分の拠り所となってくれるものは何一つなかった。そんな思いが秀吉さんの心の中にはあったんではないでしょうか。
親鸞聖人は、阿弥陀様の「我にまかせよ、必ず救う」という願いを聞かせていただいたなら、死んだら終わりのむなしい人生ではなく、この私もお浄土、仏さまの世界にうまれさせていただき仏とならせていただく命であると、お示しくださいました。
それを私が受け取ったとき。人生のゴール地点が、死んで終わりから、仏とならせていただくという目的へと転ぜられ、この私の生きる「今」という道のり全てが、仏さまとならせていただく道であったと味わうことができるのだと思います。
だからこそ親鸞聖人は「本願力に遇いぬればむなしくすぐる人ぞなき」とお示しくださったんだと思います。
つまりこの私が阿弥陀様の願いを受け取るということが、我々浄土真宗でもっとも大切なことであります。そして、この受け取る場こそ、お寺であり、お聴聞の場です。今年もお聴聞、仏さまの願いを聞かせていただきながら、この人生を歩ませていただきたいと思うことです。
妙静寺 笠 賢 信
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