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浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所

浄土真宗本願寺派 福岡組(ふくおかそ)の情報配信所へようこそ。

2014/03/03

新mp3法話 第56集 ①覚永寺 栗山俊之 ②善照寺 七里信路

mp3法話の第56集をお届けいたします。

MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。

仏様のおはなし新シリーズ 第56集 その1 「無量寿」 音声版ダウンロード
第56集 その1 「無量寿」 PDF版ダウンロード
覚永寺 栗 山 俊 之
(代読録音:真福寺 速開一弥)

仏様のおはなし新シリーズ 第56集 その2 「阿弥陀仏の慈悲」 音声版ダウンロード
第56集 その2 「阿弥陀仏の慈悲」 PDF版ダウンロード
善照寺 七 里 信 路

◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第56集 その1 「無量寿」

 私たちのご本尊、阿弥陀如来のことを無量寿如来とも申し上げます。無量寿とは、限りの無いいのち。私たちは量ることのできない、無量のいのちの繋がりの中で生かされてあるということです。
 昨年、私は、この無量寿ということについて深く考える機会を与えられました。
 私事になって恐縮なのですが、共に暮らす母の死と二人目の孫の誕生を経験したからです。家の中に、日に日に弱っていく母と、娘のお腹の中でどんどん大きくなって行く孫がいる。当たり前といえば当たり前の事ではあったのですが、その時の私にとっては、本当に不思議な事のように思えました。
 そして迎えた母の死。そして、ようやく落ち着いた頃に新たないのちの誕生。
 無量寿とは言うのだけれども、やはり人は何年何月何日に生まれ、何年何月何日に死んでいく。つまり私たちは限りのあるいのちを生きている。それもまた私たちのいのちの事実である。私にとっては、そのことを実感させられた一年でした。
 しかし、だからこそまた、なぜ浄土真宗は無量寿と教えるのかということを問い直す一年ともなりました。
 無限のいのちの繋がりの中で生きているということ。それもまた、確かです。私の父・母はともに亡くなったわけですが、私のいのちは間違いなく今もなお父・母のいのちと繋がっています。孫たちとも繋がっているし、今こうしてこの話をお聞きの皆さまとも、繋がっています。それだけではなく、現代の私たちの暮らしは、それこそ会ったことも聞いたことも見たこともないようないのちとの繋がりの中で成り立っています。
 無限のいのちの繋がりと、限りあるいのちを生きているということ。私たちはこの一見矛盾するかのように思える現実を生きています。
 このことをどう受け止めるのか。
 つまり私たちのいのちは、量ることのできないいのちの繋がりの中の一部分を、何年何月何日に生まれて何年何月何日に死ぬという形で担いながら生きている。
であれば、私のいのちを全うするということは、無限のいのちの繋がりの中の一部分を担い切るということなのではないのでしょうか。
では、どのように生きれば繋がりの一部を担い切るということになるのでしょうか。
それはやはり、私と繋がり、私を支えている様々ないのちに学び、それを自らの血肉とし、そしてまた私と繋がっている誰かに伝えていく、そのような営みの中にあるのではないでしょうか。
そのためには、多くのいのちから多くの事を学ぶことのできる人とならなければなりません。このように考えるようになって、少々遅きに失した感はあるのですが、本当に多くの方々に様々な事を学ばせて頂いている自分に気付くことができるようになりました。無量寿という世界に頷くとはそのようなことなのだろうとも思っています。
そしてこれからもまた、多くの皆さまから多くの事を学ばせていただくことだろうと思います。
共に学び合い、無量寿の中のいのちを担い切れるよう、お互いに微力を尽してまいりましょう。
ご法話とさせていただきます。

担当は祇園町覚永寺、栗山俊之でした。

覚永寺 栗 山 俊 之



仏様のおはなし新シリーズ 第56集 その2 「阿弥陀仏の慈悲」

 『お正信偈』に「大悲無倦常照我」というお言葉があります。「大悲」とは「大慈悲心」です。お釈迦さまは、『仏説観無量寿経』の中で、阿弥陀仏のお心を「大慈悲」と称えられています。「大」が付く「慈悲」なのです。ここであえて何故「大」を付けて称えられるのでしょうか?「大」は勝れているという意味での「大」なのです。悟りを獲た方にしか解らない境地で、阿弥陀さまのお慈悲のお心は、他のたくさんの仏さま方のお慈悲よりも勝れていると見抜いて「大慈悲」と仰せになるのです。
 どこがどう勝れているのか? それは、「どんなものも必ず救おうと働いて下さっている。」ところです。
「無倦」とは、親鸞聖人はこのお言葉をご和讃の中で、「ものうきことなく」と読んでおられます。しかも、これに対してわざわざ「おこたりすつるこころなしとなり」と解釈を付けて説明下さっています。「怠ることなく、見捨てることない」ということは、休む暇なく働きづくめでという意味で、次の「常照我」の「常」に続くお言葉です。阿弥陀仏のお慈悲は、この私に向けて休む暇もなく常に働き続けて下さっています。救う側の阿弥陀さまは、「休む暇なく、常です」が、救われる側の私は「時々で、たまにで、そんな中やっと」なのです。救う側と救われる側の対応の違いがあります。
 こんな詩を残した方があります。『いつみても、大悲の親は立ち通し、救われる身は、寝たり起きたり』 私たち浄土真宗のご本尊さまは、立っておられる阿弥陀如来さまです。その立ち姿の阿弥陀さまをいつも仰ぎ礼しながら、自分自身の有り様を省みて詠われたものなのでしょう。いつも阿弥陀さまは立ちつくして、私を救おうと働いてくださっている。それなのに私は、いつやら寝てしまうし、気が付いたら起きている。そんな中で、やっと確かなお救いに出会えたんだ。と喜ばれて読まれた詩だと思います。
 「大悲無倦常照我」のお言葉に、絶え間ない繰り返しの「お育て」の中を生かされている喜びを頂くことです。

今週は、衹園町 善照寺住職 七里信路でした。

善照寺 七 里 信 路

≪ 2013年度若僧会旅行ホーム新mp3法話 第55集 妙静寺 笠 賢信「むなしくない人生」 ≫

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