浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第57集 ①圓正寺 大野晴雄 ②妙泉寺 木村眞昭
mp3法話の第57集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第57集 その1 「大悲」 音声版ダウンロード
第57集 その1 「大悲」 PDF版ダウンロード
圓正寺 大 野 晴 雄
仏様のおはなし新シリーズ 第57集 その2 「ご和讃を拝読する」 音声版ダウンロード
第57集 その2 「ご和讃を拝読する」 PDF版ダウンロード
妙泉寺 木 村 眞 昭
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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仏様のおはなし新シリーズ 第57集 その1 「大悲」 音声版ダウンロード
第57集 その1 「大悲」 PDF版ダウンロード
圓正寺 大 野 晴 雄
仏様のおはなし新シリーズ 第57集 その2 「ご和讃を拝読する」 音声版ダウンロード
第57集 その2 「ご和讃を拝読する」 PDF版ダウンロード
妙泉寺 木 村 眞 昭
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第57集 その1 「大悲」
幕末から明治時代初期にかけて活躍した人の中で、山岡鉄舟さんについて余り知られていない興味深いお話があります。
愛知県鳴海の知人から、「鳴海の海でも潮干狩りの良い季節になりましたので、お弟子さんをつれて来られませんか」と案内がありましたので、鉄舟は弟子を連れて鳴海に参りました。ここの潮干狩りは、潮が引いた後、松明と手編み、魚を入れる籠をもつて、向こうずねの半分くらいまで海中にはいって、松明に集まる小魚を手編みで掬いとるという方法なのです。夕方になり、鉄舟とお弟子さんは、松明を灯して海に入りました。小魚は集まってきますので、手編みで掬うだけです。次から次へと取れるものですから、面白くてたまりません。そうなると、丁度松茸狩りのように、段々一人ひとり離れたくなるものです。そんな時、雨がポツリポツリ降ってきました。夢中になっているときは気がつきませんでしたが、潮も満ちてきて、向こうずねだったのが、膝頭の所まで上がってきています。大変と気付いたときには、どちらが海岸なのか、どちらが海なのか解らなくなってしまったのです。慌てふためいて鳴き出しそうに「先生、先生」と呼ぶお弟子さんに、鉄舟は大声で、「静かに。」 目を閉じて耳を澄ませたのです。それは、鳴海の浜千鳥は潮の満ち引きに鳴く、鳴く方が海岸であると。千鳥の声が聞こえ、ようやく海岸に辿り着いたのでした。その事を知人に話しますと、「それは大変なことでしたね。でもよくわかられましたね。」
鉄舟は、浜千鳥のことを話ましたが、知人は「もし浜千鳥が鳴かなかったら」と。鉄舟は、考え込みました。知人は、「お弟子さんたち、その時松明どうしていましたか。松明は目先のことを見るときは便利なものですが、それを捨てたらどちらが海岸か海かも解ったでしょうに」という話です。
ちょっと考えさせられる話です。
私たちは、いつも自分の考えはいつも正しいと思い、又欲望・怨みや妬みなど自己中心的な姿勢で生きています。それを手放せ、手放せばともっと違う人生が有るというのでしょう。しかし私たちにはどうあがいても到底出来る事ではありません。でも出来ない私と気付かせていただいたとき、それはもう阿弥陀如来様の大きなる慈しむ心に抱きかかえられ、生かされている身とならせていただくのでしょう。
中央区天神の圓正寺の大野晴雄でした。
仏様のおはなし新シリーズ 第57集 その2 「ご和讃を拝読する」
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、その教えを『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』などの多くの書物に著されました。それとともに何とか多くの人々に阿弥陀様のお慈悲を伝えたいと願われて、当時の今様とよばれた流行歌(はやりうた)の調べにのせて、たくさんの「和讃(わさん)」をおつくり下さいました。
ですから、私たちが毎朝のお勤めとして唱えている「正信念仏偈」と「和讃」は、もったいなくも一日のはじめに親鸞さまのお説教をじかにお聞かせいただいているとも申せましょう。
ご和讃には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』の三種があり、『浄土和讃』と『高僧和讃』は聖人七十六歳の時にご制作されましたが、残る『正像末和讃』は晩年の八十六歳のご制作です。ご制作の時期も違いますが、内容も全く異なります。前の二つのご和讃は、「正信念仏偈」に詠われている内容とほぼ重なります。つまり、南無阿弥陀仏の念仏となった阿弥陀如来の本願が、七人の高僧の教えを通して貴方や私にまで届いていますよと、何とかみんなに伝えたいという思いから、かな歌で内容を広げてお作りになられたようです。
しかし『正像末和讃』は、その誰もが浄土に往生できるはずのみ教えを受け取ることができない人間の愚かさと傲慢さに対する、悲しみと怒りに満ちた内容なのです。
特に、最初のご和讃 「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」 には次のような添え書きがおかれています。
「康元二歳丁巳二月九日夜寅時(こうげんにさいひのとのみにがつここぬかのよとらのとき)夢に告げていはく」と。康元二歳とは一二五七年のことで、二月九日とはそのちょうど五十年前のこの日、念仏弾圧によって親鸞さまの兄弟弟子であった住蓮房と安楽坊が処刑された日なのです。
これを知ったときは身が震えました。この後につづく百十六首のご和讃を拝読する姿勢が変ったことはいうまでもありません。
私たちは、単に阿弥陀様のお慈悲をありがたく喜ぶだけでよいのでしょうか。
親鸞さまの教えの背後にある歴史と願いを頂戴するように、心してお聴聞いたしましょう。
「南無阿弥陀仏」
福岡市城南区友丘 妙泉寺住職、木村眞昭が聞いていただきました。
幕末から明治時代初期にかけて活躍した人の中で、山岡鉄舟さんについて余り知られていない興味深いお話があります。
愛知県鳴海の知人から、「鳴海の海でも潮干狩りの良い季節になりましたので、お弟子さんをつれて来られませんか」と案内がありましたので、鉄舟は弟子を連れて鳴海に参りました。ここの潮干狩りは、潮が引いた後、松明と手編み、魚を入れる籠をもつて、向こうずねの半分くらいまで海中にはいって、松明に集まる小魚を手編みで掬いとるという方法なのです。夕方になり、鉄舟とお弟子さんは、松明を灯して海に入りました。小魚は集まってきますので、手編みで掬うだけです。次から次へと取れるものですから、面白くてたまりません。そうなると、丁度松茸狩りのように、段々一人ひとり離れたくなるものです。そんな時、雨がポツリポツリ降ってきました。夢中になっているときは気がつきませんでしたが、潮も満ちてきて、向こうずねだったのが、膝頭の所まで上がってきています。大変と気付いたときには、どちらが海岸なのか、どちらが海なのか解らなくなってしまったのです。慌てふためいて鳴き出しそうに「先生、先生」と呼ぶお弟子さんに、鉄舟は大声で、「静かに。」 目を閉じて耳を澄ませたのです。それは、鳴海の浜千鳥は潮の満ち引きに鳴く、鳴く方が海岸であると。千鳥の声が聞こえ、ようやく海岸に辿り着いたのでした。その事を知人に話しますと、「それは大変なことでしたね。でもよくわかられましたね。」
鉄舟は、浜千鳥のことを話ましたが、知人は「もし浜千鳥が鳴かなかったら」と。鉄舟は、考え込みました。知人は、「お弟子さんたち、その時松明どうしていましたか。松明は目先のことを見るときは便利なものですが、それを捨てたらどちらが海岸か海かも解ったでしょうに」という話です。
ちょっと考えさせられる話です。
私たちは、いつも自分の考えはいつも正しいと思い、又欲望・怨みや妬みなど自己中心的な姿勢で生きています。それを手放せ、手放せばともっと違う人生が有るというのでしょう。しかし私たちにはどうあがいても到底出来る事ではありません。でも出来ない私と気付かせていただいたとき、それはもう阿弥陀如来様の大きなる慈しむ心に抱きかかえられ、生かされている身とならせていただくのでしょう。
中央区天神の圓正寺の大野晴雄でした。
圓正寺 大 野 晴 雄
仏様のおはなし新シリーズ 第57集 その2 「ご和讃を拝読する」
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、その教えを『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』などの多くの書物に著されました。それとともに何とか多くの人々に阿弥陀様のお慈悲を伝えたいと願われて、当時の今様とよばれた流行歌(はやりうた)の調べにのせて、たくさんの「和讃(わさん)」をおつくり下さいました。
ですから、私たちが毎朝のお勤めとして唱えている「正信念仏偈」と「和讃」は、もったいなくも一日のはじめに親鸞さまのお説教をじかにお聞かせいただいているとも申せましょう。
ご和讃には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』の三種があり、『浄土和讃』と『高僧和讃』は聖人七十六歳の時にご制作されましたが、残る『正像末和讃』は晩年の八十六歳のご制作です。ご制作の時期も違いますが、内容も全く異なります。前の二つのご和讃は、「正信念仏偈」に詠われている内容とほぼ重なります。つまり、南無阿弥陀仏の念仏となった阿弥陀如来の本願が、七人の高僧の教えを通して貴方や私にまで届いていますよと、何とかみんなに伝えたいという思いから、かな歌で内容を広げてお作りになられたようです。
しかし『正像末和讃』は、その誰もが浄土に往生できるはずのみ教えを受け取ることができない人間の愚かさと傲慢さに対する、悲しみと怒りに満ちた内容なのです。
特に、最初のご和讃 「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」 には次のような添え書きがおかれています。
「康元二歳丁巳二月九日夜寅時(こうげんにさいひのとのみにがつここぬかのよとらのとき)夢に告げていはく」と。康元二歳とは一二五七年のことで、二月九日とはそのちょうど五十年前のこの日、念仏弾圧によって親鸞さまの兄弟弟子であった住蓮房と安楽坊が処刑された日なのです。
これを知ったときは身が震えました。この後につづく百十六首のご和讃を拝読する姿勢が変ったことはいうまでもありません。
私たちは、単に阿弥陀様のお慈悲をありがたく喜ぶだけでよいのでしょうか。
親鸞さまの教えの背後にある歴史と願いを頂戴するように、心してお聴聞いたしましょう。
「南無阿弥陀仏」
福岡市城南区友丘 妙泉寺住職、木村眞昭が聞いていただきました。
妙泉寺 木 村 眞 昭
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