浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第61集 ①光円寺 小森弘基 ②妙泉寺 木村 誉
mp3法話の第61集をお届けいたします。
(8/15PDF版を補完いたしました。どうぞご利用くださいませ。)
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第61集 その1 「私の歎異抄」 音声版ダウンロード
第61集 その1 「私の歎異抄」 PDF版ダウンロード
光円寺 小 森 弘 基
仏様のおはなし新シリーズ 第61集 その2 「指月のたとえ」 音声版ダウンロード
第61集 その2 「指月のたとえ」 PDF版ダウンロード
妙泉寺 木 村 誉
◎広報部
(8/15PDF版を補完いたしました。どうぞご利用くださいませ。)
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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仏様のおはなし新シリーズ 第61集 その1 「私の歎異抄」 音声版ダウンロード
第61集 その1 「私の歎異抄」 PDF版ダウンロード
光円寺 小 森 弘 基
仏様のおはなし新シリーズ 第61集 その2 「指月のたとえ」 音声版ダウンロード
第61集 その2 「指月のたとえ」 PDF版ダウンロード
妙泉寺 木 村 誉
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第60集 その1 「私の歎異抄」
「信じずにはいられない」私の「歎異抄」との出会いと、その行き着いた先は。
26歳のころ友人で浄土真宗の寺の若院であるM君の誘いをうけ仏教讃歌を歌う合唱団に入会しました。経典や和讃それに仏さまをたたえる歌を唄う合唱団で、そのころの私は宗教に特段の興味は無く、また実家は他宗派の仏教でしたので、浄土真宗の歌を唄うことにいささか戸惑いがありました。練習を重ねていくうちに、少しずつ歌詞の意味が気になり始め、お念仏や、阿弥陀如来さま、親鸞聖人と、浄土真宗で使われている言葉を理解したいと言う気持ちが涌いてまいりました。
それからしばらくたって「歎異抄」を知り、その直接的な語りかけに深く感動を覚え、繰り返し拝読するようになりました。その第一章の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。・・・・・・云々」と親鸞聖人は述べられておられます。
冒頭の「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて」の箇所がなかなか理解できず、かなりの時間を要しました。私が念仏ももうさんとおもい立つこころがおこると、弥陀の誓願のたすけにあずかり、往生を遂げることが、わかりやさしく述べられています。容易すぎて逆に疑念が生じ、永い堂々巡りの歳月が続きました。やがて、念仏を思い立つそのとき、とき同じにして弥陀の本願不思議のはたらきにあずかり、往生を遂げることが出来ると気付かされました。まさしくこれは信じずにはいられないのだと納得させてもらえました。私にとってはなにか、背中をぐっと押されたようにも思えます。
弥陀の誓願は十劫の昔からすでに私のところに到着していて、それに少しも気付かなかったのです。親鸞聖人は正像末和讃の始めに「弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」ときっぱりと言い切っておられました。いまは、お念仏の深いこころに触れさせていただき、お経やお正信偈ご和讃、それに仏教讃歌を唄う、毎日を充実感と共に過ごしております。 合掌
仏様のおはなし新シリーズ 第61集 その2 「指月のたとえ」
こんにちは。福岡市城南区にございます妙泉寺若院(じゃくいん)の木村誉です。
その昔お釈迦様は、夜空に浮かぶ月を指差しながらお弟子様方に対し「私は、あの月をあなた方に指し示すことはできるが、月を見るか見ないかは、あなた方の自由意志に任されている」とお説きになりました。ここでの「月」は真理を、そして「指」は経文の表面上の語句を表します。つまりは、「仏説の真義をよりどころとして、経文の表面上の語句にとらわれてはならない」という戒めです。これが有名なお釈迦様の「指月(しげつ)の喩え」です。
私がこの話を知ったのは今から2年前、ちょうど私が得度式を受けるために京都で研修していたときのことでした。研修中のご講義の中で、龍谷大学教授の嵩満也先生がこのお例えをお話くださったのです。ちょうど仏教を学びたてで、真宗の難解な言葉の海の中で今にも遭難しかけていた私にとっては、この「指月の喩え」は、大変すがすがしいものでした。しかし、同時に素朴な疑問が湧きました。それは「指しか見ない人をどうすれば月のほうに向けさせることができるのだろう」というものです。
私は講義が終わって控え室に戻られた嵩先生のもとを訪ねました。自己紹介も早々に、失礼承知でお尋ねしました。「僕はこれから僧侶となって来年にはお寺に帰るのですが、もしご門徒さんがさっきのお例えでいう「指」ばかり見ていて「月」を見なかったら、僕はどうやってご門徒さんを「月」の方向に向けさせてあげればよいのでしょうか?」と。すると先生はこうお答えくださいました。「それはね、阿弥陀様にしかできないんだよ」と。一般家庭の生まれで仏教も真宗も理解していなかった私は、その先生のお答えを何かインテリチックなご冗談かと勘違いし、「いやぁこれは一本とられました」と大笑いしてしまいました。しかし、先生はいたって真剣な眼差しで「いや、本当なんだよ」と仰いました。
私はやっと事の重大さに気づきました。「あぁ、冗談じゃなかったのか…」「でも、阿弥陀様にしかできないってどういうことだろう?そして、それじゃあ私は一体何のために僧侶になるのだろう」。ここから、「他力本願」という大きなみ教えをお聞かせていただく、真宗僧侶としての、私の本当の歩みが始まったように思えます。
今でも迷いに迷いを重ねる私をいつも原点に帰らせてくださる、嵩先生との大切な思い出の一コマでございました。
「信じずにはいられない」私の「歎異抄」との出会いと、その行き着いた先は。
26歳のころ友人で浄土真宗の寺の若院であるM君の誘いをうけ仏教讃歌を歌う合唱団に入会しました。経典や和讃それに仏さまをたたえる歌を唄う合唱団で、そのころの私は宗教に特段の興味は無く、また実家は他宗派の仏教でしたので、浄土真宗の歌を唄うことにいささか戸惑いがありました。練習を重ねていくうちに、少しずつ歌詞の意味が気になり始め、お念仏や、阿弥陀如来さま、親鸞聖人と、浄土真宗で使われている言葉を理解したいと言う気持ちが涌いてまいりました。
それからしばらくたって「歎異抄」を知り、その直接的な語りかけに深く感動を覚え、繰り返し拝読するようになりました。その第一章の「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。・・・・・・云々」と親鸞聖人は述べられておられます。
冒頭の「弥陀の誓願不思議にたすけまいらせて」の箇所がなかなか理解できず、かなりの時間を要しました。私が念仏ももうさんとおもい立つこころがおこると、弥陀の誓願のたすけにあずかり、往生を遂げることが、わかりやさしく述べられています。容易すぎて逆に疑念が生じ、永い堂々巡りの歳月が続きました。やがて、念仏を思い立つそのとき、とき同じにして弥陀の本願不思議のはたらきにあずかり、往生を遂げることが出来ると気付かされました。まさしくこれは信じずにはいられないのだと納得させてもらえました。私にとってはなにか、背中をぐっと押されたようにも思えます。
弥陀の誓願は十劫の昔からすでに私のところに到着していて、それに少しも気付かなかったのです。親鸞聖人は正像末和讃の始めに「弥陀の本願信ずべし 本願信ずる人はみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」ときっぱりと言い切っておられました。いまは、お念仏の深いこころに触れさせていただき、お経やお正信偈ご和讃、それに仏教讃歌を唄う、毎日を充実感と共に過ごしております。 合掌
光円寺 小 森 弘 基
仏様のおはなし新シリーズ 第61集 その2 「指月のたとえ」
こんにちは。福岡市城南区にございます妙泉寺若院(じゃくいん)の木村誉です。
その昔お釈迦様は、夜空に浮かぶ月を指差しながらお弟子様方に対し「私は、あの月をあなた方に指し示すことはできるが、月を見るか見ないかは、あなた方の自由意志に任されている」とお説きになりました。ここでの「月」は真理を、そして「指」は経文の表面上の語句を表します。つまりは、「仏説の真義をよりどころとして、経文の表面上の語句にとらわれてはならない」という戒めです。これが有名なお釈迦様の「指月(しげつ)の喩え」です。
私がこの話を知ったのは今から2年前、ちょうど私が得度式を受けるために京都で研修していたときのことでした。研修中のご講義の中で、龍谷大学教授の嵩満也先生がこのお例えをお話くださったのです。ちょうど仏教を学びたてで、真宗の難解な言葉の海の中で今にも遭難しかけていた私にとっては、この「指月の喩え」は、大変すがすがしいものでした。しかし、同時に素朴な疑問が湧きました。それは「指しか見ない人をどうすれば月のほうに向けさせることができるのだろう」というものです。
私は講義が終わって控え室に戻られた嵩先生のもとを訪ねました。自己紹介も早々に、失礼承知でお尋ねしました。「僕はこれから僧侶となって来年にはお寺に帰るのですが、もしご門徒さんがさっきのお例えでいう「指」ばかり見ていて「月」を見なかったら、僕はどうやってご門徒さんを「月」の方向に向けさせてあげればよいのでしょうか?」と。すると先生はこうお答えくださいました。「それはね、阿弥陀様にしかできないんだよ」と。一般家庭の生まれで仏教も真宗も理解していなかった私は、その先生のお答えを何かインテリチックなご冗談かと勘違いし、「いやぁこれは一本とられました」と大笑いしてしまいました。しかし、先生はいたって真剣な眼差しで「いや、本当なんだよ」と仰いました。
私はやっと事の重大さに気づきました。「あぁ、冗談じゃなかったのか…」「でも、阿弥陀様にしかできないってどういうことだろう?そして、それじゃあ私は一体何のために僧侶になるのだろう」。ここから、「他力本願」という大きなみ教えをお聞かせていただく、真宗僧侶としての、私の本当の歩みが始まったように思えます。
今でも迷いに迷いを重ねる私をいつも原点に帰らせてくださる、嵩先生との大切な思い出の一コマでございました。
妙泉寺 木 村 誉
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