浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第62集 伝照寺 轟 宏誓 「仏教で説く「生死」」
mp3法話の第62集をお届けいたします。
今回は1本のみのご提供でございます。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第62集 「仏教で説く「生死」」 音声版ダウンロード
第62集 「仏教で説く「生死」」 PDF版ダウンロード
伝照寺 轟 宏 誓
◎広報部
今回は1本のみのご提供でございます。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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第62集 「仏教で説く「生死」」 PDF版ダウンロード
伝照寺 轟 宏 誓
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第62集 「仏教で説く「生死」」
恵まれた生、限られた生を、私たちは無駄にしていないでしょうか?
仏教では「生死」と、生と死をいつも一つにして考えています。すなわち、「なぜ死ぬのか?」といえば、「生まれたから」であり、「生きているから」であります。
生まれないものが死ぬこともありませんし、生きていないものが死ぬこともありません。ですから、死の因(直接原因)は生なにです。病気や事故は、死のきっかけとなった縁(間接条件)であります。
病気になって、初めて死がやってくるのでもなく、事故にあって初めて死に出会うのでもありません。
死は、この生命が、この世に誕生したときから、いつも生と同居しているのです。
私たちはそのことを忘れ、死を他人事として、毎日をウカウカと過ごしています。
私たちは、生きていることを当り前と受け取り、死を特別の出来事のように思っていますが、本当は逆なのです。生きているものにとって、死は当然のことであり、いつ何時、どのような縁で死ぬかも知れない私が、今、ここに生きていることのほうが大変なことなのです。
ある先生は、「生は偶然、死は必然」とおっしゃっています。私たちは、「生は当然、死は偶然」と思っているのではないでしょうか。「あの人は、たまたま悪い病気にかかったから死んだ」とか、「あの犬は、運が悪い」ぐらいにしか受け取っていないのではないでしょうか。
あの人だけではありません。あの犬だけの問題ではありません。生きている以上、私たちも必ず死ぬのです。あまりうれしいことではありませんが、このことだけは、はっきりしておかなければなりません。
なぜ、こんないやなことを強調するのかといいますと、私たちは、死を忘れるとき、知らず知らずのうちに、生命を粗末にし、安易な生き方になるからです。
いつ何時、死に出会うかも知れない生命であるということを知った人は、恵まれたこの生命を粗末にすることなどできないはずでありますし、また、生きている今を、いい加減に過ごすことなどできるはずもありません。仏教が、限られた生を一時も無駄にしたくないという意(こころ)のあらわれであります。
ヨーロッパにも、古くから「メメント モリ」(死を忘れるな)というラテン語の句があるそうです。これも「短い生を、一時も粗末にするな」ということをいおうとしたものでありましょう。
現代ほど、死を忘れさせてくれるものが、周りに充満している時代はありません。
私たちは、死を目前から遠ざけ、死を忘れさせてくれる現代という時代の中で、文字通り、死を忘れ、ひいては、生すら見失って、ウカウカと日を過ごしているのではないでしょうか。
恵まれた生、限られた生を、私たちは無駄にしていないでしょうか?
仏教では「生死」と、生と死をいつも一つにして考えています。すなわち、「なぜ死ぬのか?」といえば、「生まれたから」であり、「生きているから」であります。
生まれないものが死ぬこともありませんし、生きていないものが死ぬこともありません。ですから、死の因(直接原因)は生なにです。病気や事故は、死のきっかけとなった縁(間接条件)であります。
病気になって、初めて死がやってくるのでもなく、事故にあって初めて死に出会うのでもありません。
死は、この生命が、この世に誕生したときから、いつも生と同居しているのです。
私たちはそのことを忘れ、死を他人事として、毎日をウカウカと過ごしています。
私たちは、生きていることを当り前と受け取り、死を特別の出来事のように思っていますが、本当は逆なのです。生きているものにとって、死は当然のことであり、いつ何時、どのような縁で死ぬかも知れない私が、今、ここに生きていることのほうが大変なことなのです。
ある先生は、「生は偶然、死は必然」とおっしゃっています。私たちは、「生は当然、死は偶然」と思っているのではないでしょうか。「あの人は、たまたま悪い病気にかかったから死んだ」とか、「あの犬は、運が悪い」ぐらいにしか受け取っていないのではないでしょうか。
あの人だけではありません。あの犬だけの問題ではありません。生きている以上、私たちも必ず死ぬのです。あまりうれしいことではありませんが、このことだけは、はっきりしておかなければなりません。
なぜ、こんないやなことを強調するのかといいますと、私たちは、死を忘れるとき、知らず知らずのうちに、生命を粗末にし、安易な生き方になるからです。
いつ何時、死に出会うかも知れない生命であるということを知った人は、恵まれたこの生命を粗末にすることなどできないはずでありますし、また、生きている今を、いい加減に過ごすことなどできるはずもありません。仏教が、限られた生を一時も無駄にしたくないという意(こころ)のあらわれであります。
ヨーロッパにも、古くから「メメント モリ」(死を忘れるな)というラテン語の句があるそうです。これも「短い生を、一時も粗末にするな」ということをいおうとしたものでありましょう。
現代ほど、死を忘れさせてくれるものが、周りに充満している時代はありません。
私たちは、死を目前から遠ざけ、死を忘れさせてくれる現代という時代の中で、文字通り、死を忘れ、ひいては、生すら見失って、ウカウカと日を過ごしているのではないでしょうか。
伝照寺 轟 宏 誓
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