浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第63集 ①法傳寺 松尾明宏 ②覚永寺 栗山宏之
mp3法話の第63集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第63集 その1 「正定聚」 音声版ダウンロード
第63集 その1 「正定聚」 PDF版ダウンロード
法傳寺 松 尾 明 宏
仏様のおはなし新シリーズ 第63集 その2 「損か得か人間のものさし うそかまことか仏様のものさし」 音声版ダウンロード
第63集 その2 「損か得か人間のものさし うそかまことか仏様のものさし」 PDF版ダウンロード
覚永寺 栗 山 宏 之
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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仏様のおはなし新シリーズ 第63集 その1 「正定聚」 音声版ダウンロード
第63集 その1 「正定聚」 PDF版ダウンロード
法傳寺 松 尾 明 宏
仏様のおはなし新シリーズ 第63集 その2 「損か得か人間のものさし うそかまことか仏様のものさし」 音声版ダウンロード
第63集 その2 「損か得か人間のものさし うそかまことか仏様のものさし」 PDF版ダウンロード
覚永寺 栗 山 宏 之
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第63集 その1 「正 定 聚」
私たちの人生に、確かなものは、何一つとしてありません。
若さも、いつまでも続きません。いくら拒んでも老いはじわじわとやってきます。
健康も確かなものではありません。一たび病がおそいかかってくれば、昨日までの健康がうそのように、病床の人とならなければなりません。この大切な生命ですら、いつかは消えていくものです。目さきのことに追われて、忙しく動きまわっている時、私たちは、この老・病・死を忘れています。
しかし、忘れていても、老・病・死はなくなりません。そこに、どうしようもない不安の根があるのです。この不安と、どう向きあい、どう克服するかが、私たちの人生の大きな課題であります。
多くの人は、向かいあい直視する勇気がなくて、一生それらの不安から目をそらして生きています。また、他の多くの人は、それらの不安から逃げつづけて生きています。
しかし、どれほど目をそらそうが、逃げまわろうが、老・病・死は、私たちを見逃してはくれません。
そのことを、私たちは、百も千も承知のはずです。よく知っていながら、目をそらし、逃げまわり、それでいて内心は、いつであろうかと不安におびえて一生を送るとしたら、これほどなさけない話はありません。
しかし、だからといって、老・病・死を直視するだけの勇気もなく、またそれらを克服する力もありません。生まれ難い人間に生まれ、沢山の命を犠牲にし、その上、多くの人やもののおかげをこうむって生かされていながら、こんなことでいいのでしょうか。
いいと思っていないのに、どうにもならず、立ちすくむしかない私たちに、呼びかけてくださる声があります。
「私がいますよ。やるだけやってごらん。どんなことがあっても私はあなたを見捨てません。さあ勇気を出して、一歩踏みだしてごらん」という南無阿弥陀仏の声があります。
この南無阿弥陀仏に勇気づけられ、自らやれるだけのことをやって、せっかくの人生を生き抜こう。そうすれば、どこで、どのような形で一生を終ろうとも、南無阿弥陀仏のはたらきによって、浄土にうまれさせて頂けるに間違いないのです。
正しくお浄土に生まれさせて頂くに間違いのない仲間を正定聚といいます。
私たちも、南無阿弥陀仏のよび声をきき、そのお心を頂くだけで、正定聚に入れて頂くことができるのです。
確かなものが何一つない人生が、間違いなく浄土に生まれる確かな人生となるのです。もう、何もおそれることはありません。老いがせまってこようが、病がおそいかかってこようが、また死にのぞもうが、私たちは自分のすべきことを、自分のやれることを精一杯やり抜くだけです。何も心配はありません。
確かな、南無阿弥陀仏の如来さまがいてくださるのですから。
仏様のおはなし新シリーズ 第63集 その2 「損か得か人間のものさし うそかまことか仏様のものさし」
「損か得か 人間のものさし うそかまことか 仏様のものさし」という聖句があります。
「ものさし」というのは、行動の指針とか、生活を営む上での基準という意味です。
仏教の開祖である釈尊(お釈迦様)は、人がうらやむような生活が保障された一国の王子でありながら、それを捨てて出家の道を選ばれました。自らの人生の目標を達成するために、損か得かの人間のものさしでいえば、「大損」をあえて選択したわけです。その選択が「仏教」を生み、2500年以上経った今でも世界中の人々の人生のよりどころとなっています。
マザー・テレサは、若くして修道会の学校の校長先生となりましたが、インドの大都会コルカタ(カルカッタ)のスラム街で貧困にあえいでいる人々に援助の手を差しのべるため、学校を辞め、たった一人でスラム街に入って行きました。
これも「大損」でしょう。マザーがひとりで始めたこの活動は、大きな実を結び、「神の愛の宣教者会」として今では、世界中に広がっています。
私たち人間の知恵は便利で豊かな社会を作り上げてきました。お蔭で快適な生活を送ることが可能になりました。夏は冷房、冬は暖房が当たり前です。しかしながら快適な生活の中で様々な矛盾を生み出しています。温暖化で自然を破壊する。公害で健康被害を生みだす。さらに生きていく意味が「今をオモシロオカシク」となってしまい、他人をだましてでも金儲けをする人間・社会を作ってしまったと言えば言い過ぎでしょうか?
コンペイトウが入った壷の中に手を入れ、コンペイトウをたくさん握ったままなので手が抜けなくなった猿という笑い話がありますが、私たちは快適な生活を手放すことはできません。がしかし、世の中の矛盾に眼を向け、「うそかまことか」のものさしで眺めてみることはできます。まずはそこから始めて、自分の生き方を見直したり、少しずつ行動にうつしたりしたいものです。そうすることによって「自己中心」であった見方、考え方が、「共に生きる」と変化して行くのではないでしょうか。
私たちの人生に、確かなものは、何一つとしてありません。
若さも、いつまでも続きません。いくら拒んでも老いはじわじわとやってきます。
健康も確かなものではありません。一たび病がおそいかかってくれば、昨日までの健康がうそのように、病床の人とならなければなりません。この大切な生命ですら、いつかは消えていくものです。目さきのことに追われて、忙しく動きまわっている時、私たちは、この老・病・死を忘れています。
しかし、忘れていても、老・病・死はなくなりません。そこに、どうしようもない不安の根があるのです。この不安と、どう向きあい、どう克服するかが、私たちの人生の大きな課題であります。
多くの人は、向かいあい直視する勇気がなくて、一生それらの不安から目をそらして生きています。また、他の多くの人は、それらの不安から逃げつづけて生きています。
しかし、どれほど目をそらそうが、逃げまわろうが、老・病・死は、私たちを見逃してはくれません。
そのことを、私たちは、百も千も承知のはずです。よく知っていながら、目をそらし、逃げまわり、それでいて内心は、いつであろうかと不安におびえて一生を送るとしたら、これほどなさけない話はありません。
しかし、だからといって、老・病・死を直視するだけの勇気もなく、またそれらを克服する力もありません。生まれ難い人間に生まれ、沢山の命を犠牲にし、その上、多くの人やもののおかげをこうむって生かされていながら、こんなことでいいのでしょうか。
いいと思っていないのに、どうにもならず、立ちすくむしかない私たちに、呼びかけてくださる声があります。
「私がいますよ。やるだけやってごらん。どんなことがあっても私はあなたを見捨てません。さあ勇気を出して、一歩踏みだしてごらん」という南無阿弥陀仏の声があります。
この南無阿弥陀仏に勇気づけられ、自らやれるだけのことをやって、せっかくの人生を生き抜こう。そうすれば、どこで、どのような形で一生を終ろうとも、南無阿弥陀仏のはたらきによって、浄土にうまれさせて頂けるに間違いないのです。
正しくお浄土に生まれさせて頂くに間違いのない仲間を正定聚といいます。
私たちも、南無阿弥陀仏のよび声をきき、そのお心を頂くだけで、正定聚に入れて頂くことができるのです。
確かなものが何一つない人生が、間違いなく浄土に生まれる確かな人生となるのです。もう、何もおそれることはありません。老いがせまってこようが、病がおそいかかってこようが、また死にのぞもうが、私たちは自分のすべきことを、自分のやれることを精一杯やり抜くだけです。何も心配はありません。
確かな、南無阿弥陀仏の如来さまがいてくださるのですから。
法傳寺 松 尾 明 宏
仏様のおはなし新シリーズ 第63集 その2 「損か得か人間のものさし うそかまことか仏様のものさし」
「損か得か 人間のものさし うそかまことか 仏様のものさし」という聖句があります。
「ものさし」というのは、行動の指針とか、生活を営む上での基準という意味です。
仏教の開祖である釈尊(お釈迦様)は、人がうらやむような生活が保障された一国の王子でありながら、それを捨てて出家の道を選ばれました。自らの人生の目標を達成するために、損か得かの人間のものさしでいえば、「大損」をあえて選択したわけです。その選択が「仏教」を生み、2500年以上経った今でも世界中の人々の人生のよりどころとなっています。
マザー・テレサは、若くして修道会の学校の校長先生となりましたが、インドの大都会コルカタ(カルカッタ)のスラム街で貧困にあえいでいる人々に援助の手を差しのべるため、学校を辞め、たった一人でスラム街に入って行きました。
これも「大損」でしょう。マザーがひとりで始めたこの活動は、大きな実を結び、「神の愛の宣教者会」として今では、世界中に広がっています。
私たち人間の知恵は便利で豊かな社会を作り上げてきました。お蔭で快適な生活を送ることが可能になりました。夏は冷房、冬は暖房が当たり前です。しかしながら快適な生活の中で様々な矛盾を生み出しています。温暖化で自然を破壊する。公害で健康被害を生みだす。さらに生きていく意味が「今をオモシロオカシク」となってしまい、他人をだましてでも金儲けをする人間・社会を作ってしまったと言えば言い過ぎでしょうか?
コンペイトウが入った壷の中に手を入れ、コンペイトウをたくさん握ったままなので手が抜けなくなった猿という笑い話がありますが、私たちは快適な生活を手放すことはできません。がしかし、世の中の矛盾に眼を向け、「うそかまことか」のものさしで眺めてみることはできます。まずはそこから始めて、自分の生き方を見直したり、少しずつ行動にうつしたりしたいものです。そうすることによって「自己中心」であった見方、考え方が、「共に生きる」と変化して行くのではないでしょうか。
覚永寺 栗 山 宏 之
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