浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
浄土真宗本願寺派 福岡組(ふくおかそ)の情報配信所へようこそ。
新mp3法話 第64集 ①光専寺 城 厚慈 ②真福寺 速開正澄
mp3法話の第64集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第64集 その1 「黒白二鼠(こくびゃくにそ)のお話」 音声版ダウンロード
第64集 その1 「黒白二鼠(こくびゃくにそ)のお話」 PDF版ダウンロード
光専寺 城 厚 慈
仏様のおはなし新シリーズ 第64集 その2 「浄土真宗の法事とは」 音声版ダウンロード
第64集 その2 「浄土真宗の法事とは」 PDF版ダウンロード
真福寺 速 開 正 澄
◎広報部□
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第64集 その1 「黒白二鼠(こくびゃくにそ)のお話」 音声版ダウンロード
第64集 その1 「黒白二鼠(こくびゃくにそ)のお話」 PDF版ダウンロード
光専寺 城 厚 慈
仏様のおはなし新シリーズ 第64集 その2 「浄土真宗の法事とは」 音声版ダウンロード
第64集 その2 「浄土真宗の法事とは」 PDF版ダウンロード
真福寺 速 開 正 澄
◎広報部□
仏様のおはなし新シリーズ 第64集 その1 「黒白二鼠(こくびゃくにそ)のお話」
いつもいつも福岡組ホームページにアクセスいただき有難うございます。
光専寺の座敷の床の間に一幅の掛け軸があります。比喩経の黒白二鼠の絵です。
このお軸の内容は、一人の旅人が広い野を歩いていると、後ろから暴れゾウが追いかけてきました。周りを見まわしても、身を隠すところがありません。木の根が垂れている空井戸があるのを見つけました。その木の根を伝って空井戸の中に逃げ込みました。目の前に黒と白の二匹の鼠が出てきて、交互に木の根をかじっています。下を見れば古井戸の底で、一匹の大きな毒龍が口をこちらに向けており、四匹の毒ヘビが井戸の四辺にいて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないですか。このままでは確実に根はちぎれて、男は龍や蛇に食べられてしまいます。木の根にはミツバチの巣がありその巣から甘い蜜が五滴、口のなかに落ちてきました。そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思うのです。ここに出てくる広い野とは私たちの永い迷いを喩えています。ゾウとは無常、井戸は人生、木の根はいのちを喩えています。黒白の二匹の鼠は昼と夜を喩え、私のいのちが徐々に終わりに近づいていることを示しています。井戸の周りの四匹の蛇は地水火風の四大を、五滴の蜜は財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲の五欲を喩えています。蜂はよこしまな思いを喩え、そして龍は死を喩えています。黒白の二匹の鼠がかじる木の根にしがみつき、蜜を求め続けているのは誰でもない私の姿のありようです。
私達は、人生の無常に思いをいたし、苦悩の解決を求めていかなければならないのです。阿弥陀さまの願いを聞かせていただき、私を救わずにおれない、摂め取って捨てることはない、という生死を超えていくみ教えのご縁に遇わせていただきましょう。
仏様のおはなし新シリーズ 第64集 その2 「浄土真宗の法事とは」
御門徒さんの法事に参った時に、そのお勤めのあとで、「亡くなった父も喜んでいることと思います」「ずっと気になっていたのですが、これで気が安らぎました」などと言われることがあります。どうやら追善供養のためにご法事されていたようです。あるいは義務的に考えているようにも聞こえてきます。
『歎異抄』第五条に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」とあります。親鸞聖人は、追善供養のために念仏したことはないと言っているのです。
では、浄土真宗におけるご法事にはどういう意味があるのでしょうか。ご法事のお勤めの最初に表白(ひょうびゃく)を読みます。表白には、このご法事はどのような意味で勤めるのかが含まれています。私がよく用いる表白の中に次のような一節があります。
「その遺徳は今もなお 私どものうえに はたらき続けてこのような法縁が与えられました はるかに故人の遺徳を偲んで 聴聞に精進し お念仏を相続して やがては 安養の浄土に生まれさせて頂いて ともに 相まみえることができますこと 」
ご法事をつとめるのは、亡き人の命日をご縁とし、亡き人を偲びながら、阿弥陀仏のみ教えに遇うためのご縁なのです。阿弥陀仏のみ教えに遇って聞法することです。ご法事のお勤めにあうことは、まさに法を聞くということです。亡き人がその人の生き様を通して私に何を伝えようとしていたか、それを私ははたして受け取っているかを確かめるご縁が私に与えられること、それがご法事に遇うということの意味なのです。
私たちは、亡き人から仏の教えを、身をもって教えていただいているのです。そのことに私たちが気づいたとき、亡くなった人は仏様といただけます。そして私たちの往くところは阿弥陀仏の浄土です。けして六道輪廻する迷いの世ではありません。亡くなった人を仏様といただくか、亡者とするかは、ひとえに私にかかっているのです。追善供養ではなく、南無阿弥陀仏のみ教えに遇い、お念仏申させて頂くことなのです。
担当は真福寺住職でした。
いつもいつも福岡組ホームページにアクセスいただき有難うございます。
光専寺の座敷の床の間に一幅の掛け軸があります。比喩経の黒白二鼠の絵です。
このお軸の内容は、一人の旅人が広い野を歩いていると、後ろから暴れゾウが追いかけてきました。周りを見まわしても、身を隠すところがありません。木の根が垂れている空井戸があるのを見つけました。その木の根を伝って空井戸の中に逃げ込みました。目の前に黒と白の二匹の鼠が出てきて、交互に木の根をかじっています。下を見れば古井戸の底で、一匹の大きな毒龍が口をこちらに向けており、四匹の毒ヘビが井戸の四辺にいて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないですか。このままでは確実に根はちぎれて、男は龍や蛇に食べられてしまいます。木の根にはミツバチの巣がありその巣から甘い蜜が五滴、口のなかに落ちてきました。そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思うのです。ここに出てくる広い野とは私たちの永い迷いを喩えています。ゾウとは無常、井戸は人生、木の根はいのちを喩えています。黒白の二匹の鼠は昼と夜を喩え、私のいのちが徐々に終わりに近づいていることを示しています。井戸の周りの四匹の蛇は地水火風の四大を、五滴の蜜は財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲の五欲を喩えています。蜂はよこしまな思いを喩え、そして龍は死を喩えています。黒白の二匹の鼠がかじる木の根にしがみつき、蜜を求め続けているのは誰でもない私の姿のありようです。
私達は、人生の無常に思いをいたし、苦悩の解決を求めていかなければならないのです。阿弥陀さまの願いを聞かせていただき、私を救わずにおれない、摂め取って捨てることはない、という生死を超えていくみ教えのご縁に遇わせていただきましょう。
光専寺 城 厚 慈
仏様のおはなし新シリーズ 第64集 その2 「浄土真宗の法事とは」
御門徒さんの法事に参った時に、そのお勤めのあとで、「亡くなった父も喜んでいることと思います」「ずっと気になっていたのですが、これで気が安らぎました」などと言われることがあります。どうやら追善供養のためにご法事されていたようです。あるいは義務的に考えているようにも聞こえてきます。
『歎異抄』第五条に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」とあります。親鸞聖人は、追善供養のために念仏したことはないと言っているのです。
では、浄土真宗におけるご法事にはどういう意味があるのでしょうか。ご法事のお勤めの最初に表白(ひょうびゃく)を読みます。表白には、このご法事はどのような意味で勤めるのかが含まれています。私がよく用いる表白の中に次のような一節があります。
「その遺徳は今もなお 私どものうえに はたらき続けてこのような法縁が与えられました はるかに故人の遺徳を偲んで 聴聞に精進し お念仏を相続して やがては 安養の浄土に生まれさせて頂いて ともに 相まみえることができますこと 」
ご法事をつとめるのは、亡き人の命日をご縁とし、亡き人を偲びながら、阿弥陀仏のみ教えに遇うためのご縁なのです。阿弥陀仏のみ教えに遇って聞法することです。ご法事のお勤めにあうことは、まさに法を聞くということです。亡き人がその人の生き様を通して私に何を伝えようとしていたか、それを私ははたして受け取っているかを確かめるご縁が私に与えられること、それがご法事に遇うということの意味なのです。
私たちは、亡き人から仏の教えを、身をもって教えていただいているのです。そのことに私たちが気づいたとき、亡くなった人は仏様といただけます。そして私たちの往くところは阿弥陀仏の浄土です。けして六道輪廻する迷いの世ではありません。亡くなった人を仏様といただくか、亡者とするかは、ひとえに私にかかっているのです。追善供養ではなく、南無阿弥陀仏のみ教えに遇い、お念仏申させて頂くことなのです。
担当は真福寺住職でした。
真福寺 速 開 正 澄
Comment
コメントの投稿
Track Back

Copyright © 浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所. all rights reserved.
Template by はじめてのブログデザイン
はじめてのブログ作成