浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
浄土真宗本願寺派 福岡組(ふくおかそ)の情報配信所へようこそ。
新mp3法話 第65集 ①浄満寺 井浦智眼 ②伝照寺 轟 勇二
mp3法話の第65集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第65集 その1 「お浄土」 音声版ダウンロード
第65集 その1 「お浄土」 PDF版ダウンロード
浄満寺 井 浦 智 眼
仏様のおはなし新シリーズ 第65集 その2 「人間の悲しさ」 音声版ダウンロード
第65集 その2 「人間の悲しさ」 PDF版ダウンロード
伝照寺 轟 勇 二
◎広報部
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仏様のおはなし新シリーズ 第65集 その1 「お浄土」 音声版ダウンロード
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浄満寺 井 浦 智 眼
仏様のおはなし新シリーズ 第65集 その2 「人間の悲しさ」 音声版ダウンロード
第65集 その2 「人間の悲しさ」 PDF版ダウンロード
伝照寺 轟 勇 二
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第65集 その1 「お浄土」
こんにちは。みなさんは、お子さんやお孫さん、また身近な人に「私は死んだらどうなるの?」「どこに行くの?生まれ変わるの?」と聞かれたら、どのように答えられますか?・・・びっくりして、戸惑ってしまうでしょうか。答えられなくてついつい、ごまかしてしまうかも知れませんね。それとも、「人は死んだら終わり、何にもなくなるんだよ」、「天国に往くよ」、「あの世に往くよ」、「黄泉(よみ)の国に往(い)くんだよ」などと答えられますか。真剣に考えると、私の知識や経験では答えが出てこないのではないでしょうか。
親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、御和讃(ごわさん)に「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)信(しん)ずべし 本願(ほんがん)信(しん)ずるひとはみな 摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の利益(りやく)にて 無上(むじょう)覚(かく)をばさとるなり」と示されました。これは、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)さまの本願が、「貴方(あなた)を必(かならず)ず救(すく)いますから、私にまかせて下さい」と南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)の御名(みな)となって呼びかけ、すべてのいのちにはたらいておられるというお示しです。その本願を信じ南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)とお念仏(ねんぶつ)申(もう)すものは、この世の縁が尽きて力なく終わるとき、浄土に往生し仏と成らせて戴(いただ)くということです。
そして、迷いのこの世に戻ってきて、すべてのいのちを教え導き、救いとるはたらきをさせて戴くことまで、阿弥陀如来さまの本願のはたらきなのだということを、「安楽(あんらく)浄土(じょうど)にいたるひと 五濁(ごじょく)悪(あく)世(せ)にかへりては 釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)のごとくにて 利益(りやく)衆生(しゅじょう)はきはもなし」と示されました。
このみ教えを喜び、「私のしあわせは、すべてのいのちの幸せとともにあるのだ」と人生を生きぬかれたのが、親鸞様をはじめ私たちの先祖、先人達でした。
私が叔父と別れたお通夜の晩のことです。叔父の親しい友人がお参り下さって、叔父の息子に「あんたも寂しくなったねえ・・・。また一人お浄土に帰って行かれた。段々寂しくなっていくもんねえ。でも、お浄土は賑(にぎ)やかになっとるだろうね・・・。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」とおっしゃいました。
親しい友人と別れた寂しさを感じながらも、再び会うことのできる浄土をおもい、すでに仏の救いの中にあることを喜び、安心の中に「南無阿弥陀仏」とお念仏申されたのでしょう。
生きているものは必ず死なねばなりません。出会ったものは必ず別れが訪れます。限りあるいのちと自覚し、必ず浄土に生まれ仏と成らせて戴くことを、今、周りの方々と共に喜び合う人生を歩ませて戴きましょう。
仏様のおはなし新シリーズ 第65集 その2 「人間の悲しさ」
お釈迦様在世の頃のお話しです。
コーサラ国のプラセーナチット王は美しい妻であるマッリカー王妃を伴って、月を見るために王宮の高い場所に登った。その時、空に美しく輝く月に感動した王は、王妃に対し「あなたがこの世で最もいとおしく思うものは誰か」と尋ねた。しかし、ロマンチックな答えを期待していた王の思いとは反する答えが返ってきた。「王さま、私が最もいとおしく思うものは私自身です。」すっかり興ざめしてしまった王さまに向かって、王妃は問い返した。「では王さま、あなたがこの世でもっともいとおしく思われる方はどなたですか。」しばらく考えた結果、王もまた王妃と同じように答えざるを得なかった。王妃のことをもっともいとおしく思い、愛し合っていると思っていた王だが、はじめて互いの思いのなかに横たわる、自己への抜きがたい愛着、我執があることに気づき、深く悩んだ。王はただちにお釈迦様を訪ね、この悩みを打ち明けると、お釈迦様は次のように答えた。「自己の心を真に知るものこそ、他の人を愛することのできる人である。自分を誰よりも愛する心を捨て去ることのできない自己、その自己にめざめてはじめて互いに他のものをいとおしく思うことができる。」このお釈迦様のことばから、王は王妃の真の心を知り、王妃が自分を愛する心の深さを知った。
これは原始仏典に出てくるエピソードです。私がはじめてこのお話しを聞いたとき、はっとしたことを覚えていますが、皆さんはいかがでしょうか。ここには「愛」ということ、そして人間の持つ悲しさが語られているように感じます。
自らのなかにある自己への愛着、我執、これを自分のこととして受け入れることは容易ではありません。けれども、私の抱えているもの、その悲しみの深さが、そのまま阿弥陀様の「私」への慈悲の深さだと聞きひらくとき、はじめて自らの姿にうなづけます。そこに慚愧、はずかしいという思いもいただくのですね。
自己の持つ悲しみに気づく、このことが人生を見る目を開き、私自身の生きる指針となるのでしょう。今回のエピソードは引き続き、私達に大切な事を気づかせてくれそうです。
この度は地行伝照寺の轟勇二が担当させていただきました。有り難うございました。
こんにちは。みなさんは、お子さんやお孫さん、また身近な人に「私は死んだらどうなるの?」「どこに行くの?生まれ変わるの?」と聞かれたら、どのように答えられますか?・・・びっくりして、戸惑ってしまうでしょうか。答えられなくてついつい、ごまかしてしまうかも知れませんね。それとも、「人は死んだら終わり、何にもなくなるんだよ」、「天国に往くよ」、「あの世に往くよ」、「黄泉(よみ)の国に往(い)くんだよ」などと答えられますか。真剣に考えると、私の知識や経験では答えが出てこないのではないでしょうか。
親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、御和讃(ごわさん)に「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)信(しん)ずべし 本願(ほんがん)信(しん)ずるひとはみな 摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)の利益(りやく)にて 無上(むじょう)覚(かく)をばさとるなり」と示されました。これは、阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)さまの本願が、「貴方(あなた)を必(かならず)ず救(すく)いますから、私にまかせて下さい」と南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)の御名(みな)となって呼びかけ、すべてのいのちにはたらいておられるというお示しです。その本願を信じ南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)とお念仏(ねんぶつ)申(もう)すものは、この世の縁が尽きて力なく終わるとき、浄土に往生し仏と成らせて戴(いただ)くということです。
そして、迷いのこの世に戻ってきて、すべてのいのちを教え導き、救いとるはたらきをさせて戴くことまで、阿弥陀如来さまの本願のはたらきなのだということを、「安楽(あんらく)浄土(じょうど)にいたるひと 五濁(ごじょく)悪(あく)世(せ)にかへりては 釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)のごとくにて 利益(りやく)衆生(しゅじょう)はきはもなし」と示されました。
このみ教えを喜び、「私のしあわせは、すべてのいのちの幸せとともにあるのだ」と人生を生きぬかれたのが、親鸞様をはじめ私たちの先祖、先人達でした。
私が叔父と別れたお通夜の晩のことです。叔父の親しい友人がお参り下さって、叔父の息子に「あんたも寂しくなったねえ・・・。また一人お浄土に帰って行かれた。段々寂しくなっていくもんねえ。でも、お浄土は賑(にぎ)やかになっとるだろうね・・・。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。」とおっしゃいました。
親しい友人と別れた寂しさを感じながらも、再び会うことのできる浄土をおもい、すでに仏の救いの中にあることを喜び、安心の中に「南無阿弥陀仏」とお念仏申されたのでしょう。
生きているものは必ず死なねばなりません。出会ったものは必ず別れが訪れます。限りあるいのちと自覚し、必ず浄土に生まれ仏と成らせて戴くことを、今、周りの方々と共に喜び合う人生を歩ませて戴きましょう。
浄満寺 井 浦 智 眼
仏様のおはなし新シリーズ 第65集 その2 「人間の悲しさ」
お釈迦様在世の頃のお話しです。
コーサラ国のプラセーナチット王は美しい妻であるマッリカー王妃を伴って、月を見るために王宮の高い場所に登った。その時、空に美しく輝く月に感動した王は、王妃に対し「あなたがこの世で最もいとおしく思うものは誰か」と尋ねた。しかし、ロマンチックな答えを期待していた王の思いとは反する答えが返ってきた。「王さま、私が最もいとおしく思うものは私自身です。」すっかり興ざめしてしまった王さまに向かって、王妃は問い返した。「では王さま、あなたがこの世でもっともいとおしく思われる方はどなたですか。」しばらく考えた結果、王もまた王妃と同じように答えざるを得なかった。王妃のことをもっともいとおしく思い、愛し合っていると思っていた王だが、はじめて互いの思いのなかに横たわる、自己への抜きがたい愛着、我執があることに気づき、深く悩んだ。王はただちにお釈迦様を訪ね、この悩みを打ち明けると、お釈迦様は次のように答えた。「自己の心を真に知るものこそ、他の人を愛することのできる人である。自分を誰よりも愛する心を捨て去ることのできない自己、その自己にめざめてはじめて互いに他のものをいとおしく思うことができる。」このお釈迦様のことばから、王は王妃の真の心を知り、王妃が自分を愛する心の深さを知った。
これは原始仏典に出てくるエピソードです。私がはじめてこのお話しを聞いたとき、はっとしたことを覚えていますが、皆さんはいかがでしょうか。ここには「愛」ということ、そして人間の持つ悲しさが語られているように感じます。
自らのなかにある自己への愛着、我執、これを自分のこととして受け入れることは容易ではありません。けれども、私の抱えているもの、その悲しみの深さが、そのまま阿弥陀様の「私」への慈悲の深さだと聞きひらくとき、はじめて自らの姿にうなづけます。そこに慚愧、はずかしいという思いもいただくのですね。
自己の持つ悲しみに気づく、このことが人生を見る目を開き、私自身の生きる指針となるのでしょう。今回のエピソードは引き続き、私達に大切な事を気づかせてくれそうです。
この度は地行伝照寺の轟勇二が担当させていただきました。有り難うございました。
伝照寺 轟 勇 二
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