浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第67集 ①建立寺 三笠崇雄 ②専立寺 藤 真哉
mp3法話の第67集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第67集 その1 「今を大切に生きる 一日を大切に生きる 一生を大切に生きる」 音声版ダウンロード
第67集 その1 「今を大切に生きる 一日を大切に生きる 一生を大切に生きる」 PDF版ダウンロード
建立寺 三 笠 崇 雄
仏様のおはなし新シリーズ 第67集 その2 「正義の味方の見方」 音声版ダウンロード
第67集 その2 「正義の味方の見方」 PDF版ダウンロード
専立寺 藤 真 哉
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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仏様のおはなし新シリーズ 第67集 その1 「今を大切に生きる 一日を大切に生きる 一生を大切に生きる」 音声版ダウンロード
第67集 その1 「今を大切に生きる 一日を大切に生きる 一生を大切に生きる」 PDF版ダウンロード
建立寺 三 笠 崇 雄
仏様のおはなし新シリーズ 第67集 その2 「正義の味方の見方」 音声版ダウンロード
第67集 その2 「正義の味方の見方」 PDF版ダウンロード
専立寺 藤 真 哉
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第67集 その1 「今を大切に生きる 一日を大切に生きる 一生を大切に生きる」
「今を大切に生きる 一日を大切に生きる 一生を大切に生きる」
これは以前お寺の山門の掲示板に書かせていただいた、ある法語カレンダーからの言葉です。
昨年亡くなったアメリカの俳優、ロビン・ウィリアムズの映画に『今を生きる』という作品があります。厳しい規則に縛られた学校を舞台に、破天荒な教師が生徒を導き、やがて生徒たちは自分の足で人生を歩み出す、といった内容でした。
『今を生きる』という言葉はよく耳にします。しかし、これは当り前のようで実はなかなか難しいことです。
規則に縛られた生徒たちのように私たちは何かに縛られ、"今"をしっかり生きているとは言えないのではないでしょうか。
私を縛るものとしてやっかいなのが実は過去と未来です。読んで字の如く、過去は過ぎ去ったもの、未来は未だ来ないもの。いずれも今現在はどこにも無いものです。
もう過ぎ去って今何処にもいない過去の自分を悔み、あるいは昔の栄光を懐かしみ、それに縛られ、未だ来ない未来の自分に期待し、老いや死などの先行きを恐れ、それに囚われていていませんか?それらで頭がいっぱいになって肝心の"今の私"が置き去りにされていないでしょうか?
仏教では過去・現在・未来を『三世(さんぜ)』といいます。その中でも『現在』が最も重要と説きます。私にとって現在が全てであり、その現在を問題としています。
ある時、お釈迦様とお弟子たちのところに神がやって来て、「あなたたちは家も無く着の身着のまま、一日に一食しか食べず、なのに何故あなたたちの顔はそのように穏やかで美しく輝いているのか。」と尋ねました。釈尊は「私達は過去に悩まず、未来を期待せず、現在に生きている。したがって穏やかなのです」とお答えになりました。
つまり、瞬間瞬間を充分満足して生きているから命が輝いているということなのです。
「あのころは良かった」とか「あの時ああしてればこうはならなかった」という思いに囚われていませんか?「今はまだ本気を出してないが、その時になったら…」とか「いつまで生きられるのだろうか?」などと思っていませんか?
阿弥陀さまは、迷う「私」に向かって「今」「ここで」目覚める教えを示して下さっています。
それが『南無阿弥陀仏』のお念仏です。「そのままで必ず救う、念仏申せ」とのお呼び声に、私が念仏申そうと思うその時に、既にお救いの中にあるのです。
阿弥陀さまに常に願われ、その手に抱かれているからこそ、たとえどのような境涯にあろうと、仏さまに出遇った"今の私"のかけがえの無い身命(いのち)が輝いていくのです。
「今」が輝いてこそ、「あの時のあの事のお蔭」と過去に対して拝んで行けるのではないでしょうか。そして大切に生きる「今」の積み重ねが、一日・一年・一生と、未来へとつながっていくことでしょう。
仏様のおはなし新シリーズ 第67集 その2 「正義の味方の見方」
先日、高校時代の友人で集まる機会があり、古今東西ゲームをした時の話です。
「古今東西、SMAPの名前!」「すぐ終わるじゃないか!」
「古今東西、日本の苗字!」「多すぎるじゃないか!!」…てな具合に遊んでいました。
そして、「古今東西、ヒーローの名前!!」というお題の時に、友人のAが「月光仮面」と言いました。昨年で30歳になった私達ですので、あっけにとられて「月光仮面を選ぶなんて古いな」と笑っていました。しかし、この「月光仮面」は、実に仏教的な心の持ち主なんですね。
月光仮面と言えば、全身真っ白で、顔にはターバンとサングラス、大きなマントをなびかせた特徴的な姿をしています。そして、「罪を憎んで人を憎まず」という精神で事件に挑むのです。彼のその姿勢は持っている武器の使い方にも反映されています、2丁の拳銃を持っていますが、敵の命を奪ったり、やっつけたりするために使われず、相手の武器を撃ち落とすことだけに使われます。そして、でてくる敵たちはみんな、自分達の強い欲のせいで自滅してしまい、月光仮面はいつもそれを悲しそうに見つめるのです。
昨今のテレビや映画に出てくるヒーローは、自分のことを正義だと名乗り、その正義を振りかざしながら悪をやっつけます。正義が正しくて、悪は抹消されるべき世界として描かれます。
ところが「月光仮面」は、正義を求めてはいますが、自分自身を正義だとは言わないのです。あくまでも「正義の味方」として描かれます。この違いはとても大きいですね。対立する者同士が、「自分たちだけが正義だ!」と主張し合えば、争いしか残りません。
仏教は、すべてのものが縁起で成り立ち、すべてのものが互いに関わり合いながら存在すると説きます。そのことに気づかないから悩みや苦しみ、最後に争いが生まれるのであって、それぞれに絶対的な「善」や「悪」はない、と説きます。親鸞聖人も歎異抄という書物の「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり~」とはじめる言葉の中で、善悪を決めつけようとすることこそが煩悩だと言われています。
そもそも仏教には、善が悪をやっつけるという世界ではないのに、私達が自分の見方によって善悪を決めてしまうのです。
戦争、殺人、暴力が限りなく発生してしまう現代社会を見るとき、「憎み、殺し、裁き合う」という思想が蔓延している世界の中で、「憎むな、殺すな、赦す」と呼び掛けてくれる月光仮面を私達の心の中に生み出すことができれば、世界はどれだけ穏やかになることでしょう。
「今を大切に生きる 一日を大切に生きる 一生を大切に生きる」
これは以前お寺の山門の掲示板に書かせていただいた、ある法語カレンダーからの言葉です。
昨年亡くなったアメリカの俳優、ロビン・ウィリアムズの映画に『今を生きる』という作品があります。厳しい規則に縛られた学校を舞台に、破天荒な教師が生徒を導き、やがて生徒たちは自分の足で人生を歩み出す、といった内容でした。
『今を生きる』という言葉はよく耳にします。しかし、これは当り前のようで実はなかなか難しいことです。
規則に縛られた生徒たちのように私たちは何かに縛られ、"今"をしっかり生きているとは言えないのではないでしょうか。
私を縛るものとしてやっかいなのが実は過去と未来です。読んで字の如く、過去は過ぎ去ったもの、未来は未だ来ないもの。いずれも今現在はどこにも無いものです。
もう過ぎ去って今何処にもいない過去の自分を悔み、あるいは昔の栄光を懐かしみ、それに縛られ、未だ来ない未来の自分に期待し、老いや死などの先行きを恐れ、それに囚われていていませんか?それらで頭がいっぱいになって肝心の"今の私"が置き去りにされていないでしょうか?
仏教では過去・現在・未来を『三世(さんぜ)』といいます。その中でも『現在』が最も重要と説きます。私にとって現在が全てであり、その現在を問題としています。
ある時、お釈迦様とお弟子たちのところに神がやって来て、「あなたたちは家も無く着の身着のまま、一日に一食しか食べず、なのに何故あなたたちの顔はそのように穏やかで美しく輝いているのか。」と尋ねました。釈尊は「私達は過去に悩まず、未来を期待せず、現在に生きている。したがって穏やかなのです」とお答えになりました。
つまり、瞬間瞬間を充分満足して生きているから命が輝いているということなのです。
「あのころは良かった」とか「あの時ああしてればこうはならなかった」という思いに囚われていませんか?「今はまだ本気を出してないが、その時になったら…」とか「いつまで生きられるのだろうか?」などと思っていませんか?
阿弥陀さまは、迷う「私」に向かって「今」「ここで」目覚める教えを示して下さっています。
それが『南無阿弥陀仏』のお念仏です。「そのままで必ず救う、念仏申せ」とのお呼び声に、私が念仏申そうと思うその時に、既にお救いの中にあるのです。
阿弥陀さまに常に願われ、その手に抱かれているからこそ、たとえどのような境涯にあろうと、仏さまに出遇った"今の私"のかけがえの無い身命(いのち)が輝いていくのです。
「今」が輝いてこそ、「あの時のあの事のお蔭」と過去に対して拝んで行けるのではないでしょうか。そして大切に生きる「今」の積み重ねが、一日・一年・一生と、未来へとつながっていくことでしょう。
建立寺 三 笠 崇 雄
仏様のおはなし新シリーズ 第67集 その2 「正義の味方の見方」
先日、高校時代の友人で集まる機会があり、古今東西ゲームをした時の話です。
「古今東西、SMAPの名前!」「すぐ終わるじゃないか!」
「古今東西、日本の苗字!」「多すぎるじゃないか!!」…てな具合に遊んでいました。
そして、「古今東西、ヒーローの名前!!」というお題の時に、友人のAが「月光仮面」と言いました。昨年で30歳になった私達ですので、あっけにとられて「月光仮面を選ぶなんて古いな」と笑っていました。しかし、この「月光仮面」は、実に仏教的な心の持ち主なんですね。
月光仮面と言えば、全身真っ白で、顔にはターバンとサングラス、大きなマントをなびかせた特徴的な姿をしています。そして、「罪を憎んで人を憎まず」という精神で事件に挑むのです。彼のその姿勢は持っている武器の使い方にも反映されています、2丁の拳銃を持っていますが、敵の命を奪ったり、やっつけたりするために使われず、相手の武器を撃ち落とすことだけに使われます。そして、でてくる敵たちはみんな、自分達の強い欲のせいで自滅してしまい、月光仮面はいつもそれを悲しそうに見つめるのです。
昨今のテレビや映画に出てくるヒーローは、自分のことを正義だと名乗り、その正義を振りかざしながら悪をやっつけます。正義が正しくて、悪は抹消されるべき世界として描かれます。
ところが「月光仮面」は、正義を求めてはいますが、自分自身を正義だとは言わないのです。あくまでも「正義の味方」として描かれます。この違いはとても大きいですね。対立する者同士が、「自分たちだけが正義だ!」と主張し合えば、争いしか残りません。
仏教は、すべてのものが縁起で成り立ち、すべてのものが互いに関わり合いながら存在すると説きます。そのことに気づかないから悩みや苦しみ、最後に争いが生まれるのであって、それぞれに絶対的な「善」や「悪」はない、と説きます。親鸞聖人も歎異抄という書物の「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり~」とはじめる言葉の中で、善悪を決めつけようとすることこそが煩悩だと言われています。
そもそも仏教には、善が悪をやっつけるという世界ではないのに、私達が自分の見方によって善悪を決めてしまうのです。
戦争、殺人、暴力が限りなく発生してしまう現代社会を見るとき、「憎み、殺し、裁き合う」という思想が蔓延している世界の中で、「憎むな、殺すな、赦す」と呼び掛けてくれる月光仮面を私達の心の中に生み出すことができれば、世界はどれだけ穏やかになることでしょう。
専立寺 藤 真 哉
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