浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第70集 順正寺 古海宗雄「阿弥陀の救い」
mp3法話の第70集をお届けいたします。
今回も1本のみでございます。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第70集 「阿弥陀の救い」 音声版ダウンロード
第70集 「阿弥陀の救い」 PDF版ダウンロード
順正寺 古 海 宗 雄
◎広報部
今回も1本のみでございます。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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第70集 「阿弥陀の救い」 PDF版ダウンロード
順正寺 古 海 宗 雄
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第70集 「阿弥陀の救い」
本願寺出版社から出されています『拝読浄土真宗のみ教え』の親鸞聖人のことばの中に「限りなき光と寿(いのち)の仏」というところがあります。中身は次のとおりです。
「阿弥陀如来がさとりを開く前、法蔵菩薩であったとき、すべてのものを救うため、限りない光と寿をそなえた仏になろうと誓われた。そして果てしない修行の末に、その願いを成就して如来となられた。阿弥陀とは無量をあらわす。阿弥陀如来は、その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂(おさ)め取ってくださる。その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。親鸞聖人は仰せになる。
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨てないと、どこまでもはたらき続ける仏がおられる。その仏を阿弥陀如来と申し上げるのである。」
「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」という親鸞聖人おことばは、阿弥陀さまという仏さまだから私たちを摂めとって捨てないのではなくて、私たちを摂めとって捨てないはたらきを阿弥陀というのです。
阿弥陀さまは、「必ず救う 我にまかせよ あなたのそのままでいいですよ」と呼び続けてくださっています。厳しい修行や仏教の勉強、仏さまのはなしを聞かない者は救いませんではなく、それが出来ないものをも救う。むしろ出来ないわたしが目当てでありましたとお聞かせいただいています。親鸞聖人は摂取とは「物の逃ぐるを追わえ取る」とお示しです。逃げるものとは当にわたしのありようでありました。わたしは、朝から晩までこれが好き嫌い。勝った、負けた。得した、損した。他人のことより自分のことと生きています。わたしのこころの、この部分だけは人に知られたくない、見せられないということもすべてお見通しの上で、離さない、離せないと呼び続けてくださっているのが阿弥陀さまです。
南無阿弥陀仏のお念仏はよろしくお願いします、助けてくださいという神頼みのことばではなく。阿弥陀さまの方から「必ず救う 我にまかせよ」と名乗りとなり呼び声となってわたしたちにいたりどどいてくださっています。まさに今が、お救いの中の真っ只中でした。阿弥陀さまのご苦労を唯々お聴聞させていただくばかりであります。
本願寺出版社から出されています『拝読浄土真宗のみ教え』の親鸞聖人のことばの中に「限りなき光と寿(いのち)の仏」というところがあります。中身は次のとおりです。
「阿弥陀如来がさとりを開く前、法蔵菩薩であったとき、すべてのものを救うため、限りない光と寿をそなえた仏になろうと誓われた。そして果てしない修行の末に、その願いを成就して如来となられた。阿弥陀とは無量をあらわす。阿弥陀如来は、その限りない光をもって、あらゆる世界を照らし、私たちを摂(おさ)め取ってくださる。その限りない寿をもって、あらゆる時代を貫き、私たちを救いとってくださる。親鸞聖人は仰せになる。
十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の 念仏の衆生(しゅじょう)をみそなわし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる
たとえ私たちがその救いに背を向けようとも、摂め取って捨てないと、どこまでもはたらき続ける仏がおられる。その仏を阿弥陀如来と申し上げるのである。」
「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」という親鸞聖人おことばは、阿弥陀さまという仏さまだから私たちを摂めとって捨てないのではなくて、私たちを摂めとって捨てないはたらきを阿弥陀というのです。
阿弥陀さまは、「必ず救う 我にまかせよ あなたのそのままでいいですよ」と呼び続けてくださっています。厳しい修行や仏教の勉強、仏さまのはなしを聞かない者は救いませんではなく、それが出来ないものをも救う。むしろ出来ないわたしが目当てでありましたとお聞かせいただいています。親鸞聖人は摂取とは「物の逃ぐるを追わえ取る」とお示しです。逃げるものとは当にわたしのありようでありました。わたしは、朝から晩までこれが好き嫌い。勝った、負けた。得した、損した。他人のことより自分のことと生きています。わたしのこころの、この部分だけは人に知られたくない、見せられないということもすべてお見通しの上で、離さない、離せないと呼び続けてくださっているのが阿弥陀さまです。
南無阿弥陀仏のお念仏はよろしくお願いします、助けてくださいという神頼みのことばではなく。阿弥陀さまの方から「必ず救う 我にまかせよ」と名乗りとなり呼び声となってわたしたちにいたりどどいてくださっています。まさに今が、お救いの中の真っ只中でした。阿弥陀さまのご苦労を唯々お聴聞させていただくばかりであります。
順正寺 古 海 宗 雄
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