浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第87集 浄満寺 井浦智眼 「「救う」とは」
mp3法話の第87集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第87集 「「救う」とは」 音声版ダウンロード
第87集 「「救う」とは」 PDF版ダウンロード
浄満寺 井 浦 智 眼
◎広報部 ◇
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浄満寺 井 浦 智 眼
◎広報部 ◇
仏様のおはなし新シリーズ 第87集 「救う」とは」
「阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)の本願(ほんがん)は かならず救(すく)うまかせよと
南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)のみ名(な)となり たえず私(わたし)によびかけます」
皆(みな)さん、こんにちは。いま読(よ)ませて頂(いただ)いたのは「拝読(はいどく) 浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)のみ教(おし)え」の中(なか)の浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)の救(すく)いのよろこびの冒頭(ぼうとう)の文章(ぶんしょう)です。
「阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)の本願(ほんがん)は かならず救(すく)うまかせよと
南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)のみ名(な)となり たえず私(わたし)によびかけます」
阿弥陀(あみだ)さまが「かならず救(すく)う」とよびかけて下(くだ)さっている「救(すく)う」とは、
どういうことでしょうか?。病気(びょうき)を治(なお)す、事故(じこ)に遭(あ)わせない、長(なが)生(い)きさせる、等々(とうとう)、自分(じぶん)の願(ねが)いを満足(まんぞく)させてもらうことを「救(すく)う」と思(おも)っていませんか?。
一般的(いっぱんてき)に「救(すく)われた」というと自分(じぶん)の願(ねが)いが叶(かな)ったときに使(つか)うことが少(すく)なくないので、仏(ほとけ)さまの「救(すく)い」も、そうなのだと勘違(かんちが)いしておられるのでしょうか。この場合(ばあい)、願(ねが)いが叶(かな)うと「御利益(ごりやく)があった」と言(い)い、願い(ねがい)が叶(かな)わないと「神(かみ)も仏(ほとけ)もあるもんか」となるのでしょう。これでは仏(ほとけ)さまの願(ねが)いは聞(き)こえてきません。
阿弥陀(あみだ)さまが、よびかけて下(くだ)さっている「救(すく)う」とは、私(わたし)の願(ねが)い、つまり仏(ほとけ)の願(ねが)いを聞(き)いて欲(ほ)しいとおっしゃっているのです。
仏(ほとけ)の願(ねが)いに気(き)づかせ、信(しん)じさせ、浄土(じょうど)に往生(おうじょう)させ、成仏(じょうぶつ)させて、あらゆるいのちを救(すく)う生(い)き方(かた)を必(かなら)ずさせるとよびかけ、はたらいて下(くだ)さっているのです。
私(わたし)たち人間(にんげん)の願(ねが)いは、自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)で、周(まわ)りを思(おも)いやることのない、我欲(がよく)に満(み)ちた願(ねが)いであることが少(すく)なくありません。その人間(にんげん)の願(ねが)いを満足(まんぞく)させるために仏(ほとけ)は本願(ほんがん)を建(た)てられたのではありません。あらゆるいのちを救(すく)いたいという真実(しんじつ)の願(ねが)いに気(き)づかせ、仏(ほとけ)の願(ねが)いを自(みずか)らの願(ねが)いとさせたいと、はたらいておられるのです。
「たえず私(わたし)によびかけます」と、365日(にち)24時間(じかん)休(やす)まず、よびかけ、はたらきかけておられるのです。私(わたし)の悩(なや)み悲(かな)しみ苦(くる)しみを知(し)り尽(つ)くしているからこそ、一時(いっとき)も私(わたし)から離(はな)れることができずに見(み)護(まも)り続(つづ)けて下(くだ)さっています。
親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は浄土和讃(じょうどわさん)に
「十方(じっぽう)微塵(みじん)世界(せかい)の 念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)をみそなはし
摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる」
と、お示(しめ)し下(くだ)さいました。
阿弥陀(あみだ)さまは、「貴方(あなた)を、本願(ほんがん)を信(しん)じ念仏(ねんぶつ)するものに育て(そだて)、必(かなら)ず仏(ほとけ)にしますから、私(わたし)にまかせて下(くだ)さい」と南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)のみ名(な)となって呼(よ)びかけ、すべてのいのちに、はたらいておられるというお示(しめ)しです。
私(わたし)の悩(なや)み悲(かな)しみ苦(くる)しみ、迷(まよ)いは限(かぎ)りなく深(ふか)いので、摂(おさ)めとって捨(す)てないと誓(ちか)ってくださっています。
これからも南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)とお念仏(ねんぶつ)申(もう)しながらの人生(じんせい)をご一緒(いっしょ)いたしましょう。
「阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)の本願(ほんがん)は かならず救(すく)うまかせよと
南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)のみ名(な)となり たえず私(わたし)によびかけます」
皆(みな)さん、こんにちは。いま読(よ)ませて頂(いただ)いたのは「拝読(はいどく) 浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)のみ教(おし)え」の中(なか)の浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)の救(すく)いのよろこびの冒頭(ぼうとう)の文章(ぶんしょう)です。
「阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)の本願(ほんがん)は かならず救(すく)うまかせよと
南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)のみ名(な)となり たえず私(わたし)によびかけます」
阿弥陀(あみだ)さまが「かならず救(すく)う」とよびかけて下(くだ)さっている「救(すく)う」とは、
どういうことでしょうか?。病気(びょうき)を治(なお)す、事故(じこ)に遭(あ)わせない、長(なが)生(い)きさせる、等々(とうとう)、自分(じぶん)の願(ねが)いを満足(まんぞく)させてもらうことを「救(すく)う」と思(おも)っていませんか?。
一般的(いっぱんてき)に「救(すく)われた」というと自分(じぶん)の願(ねが)いが叶(かな)ったときに使(つか)うことが少(すく)なくないので、仏(ほとけ)さまの「救(すく)い」も、そうなのだと勘違(かんちが)いしておられるのでしょうか。この場合(ばあい)、願(ねが)いが叶(かな)うと「御利益(ごりやく)があった」と言(い)い、願い(ねがい)が叶(かな)わないと「神(かみ)も仏(ほとけ)もあるもんか」となるのでしょう。これでは仏(ほとけ)さまの願(ねが)いは聞(き)こえてきません。
阿弥陀(あみだ)さまが、よびかけて下(くだ)さっている「救(すく)う」とは、私(わたし)の願(ねが)い、つまり仏(ほとけ)の願(ねが)いを聞(き)いて欲(ほ)しいとおっしゃっているのです。
仏(ほとけ)の願(ねが)いに気(き)づかせ、信(しん)じさせ、浄土(じょうど)に往生(おうじょう)させ、成仏(じょうぶつ)させて、あらゆるいのちを救(すく)う生(い)き方(かた)を必(かなら)ずさせるとよびかけ、はたらいて下(くだ)さっているのです。
私(わたし)たち人間(にんげん)の願(ねが)いは、自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)で、周(まわ)りを思(おも)いやることのない、我欲(がよく)に満(み)ちた願(ねが)いであることが少(すく)なくありません。その人間(にんげん)の願(ねが)いを満足(まんぞく)させるために仏(ほとけ)は本願(ほんがん)を建(た)てられたのではありません。あらゆるいのちを救(すく)いたいという真実(しんじつ)の願(ねが)いに気(き)づかせ、仏(ほとけ)の願(ねが)いを自(みずか)らの願(ねが)いとさせたいと、はたらいておられるのです。
「たえず私(わたし)によびかけます」と、365日(にち)24時間(じかん)休(やす)まず、よびかけ、はたらきかけておられるのです。私(わたし)の悩(なや)み悲(かな)しみ苦(くる)しみを知(し)り尽(つ)くしているからこそ、一時(いっとき)も私(わたし)から離(はな)れることができずに見(み)護(まも)り続(つづ)けて下(くだ)さっています。
親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は浄土和讃(じょうどわさん)に
「十方(じっぽう)微塵(みじん)世界(せかい)の 念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)をみそなはし
摂取(せっしゅ)してすてざれば 阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる」
と、お示(しめ)し下(くだ)さいました。
阿弥陀(あみだ)さまは、「貴方(あなた)を、本願(ほんがん)を信(しん)じ念仏(ねんぶつ)するものに育て(そだて)、必(かなら)ず仏(ほとけ)にしますから、私(わたし)にまかせて下(くだ)さい」と南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)のみ名(な)となって呼(よ)びかけ、すべてのいのちに、はたらいておられるというお示(しめ)しです。
私(わたし)の悩(なや)み悲(かな)しみ苦(くる)しみ、迷(まよ)いは限(かぎ)りなく深(ふか)いので、摂(おさ)めとって捨(す)てないと誓(ちか)ってくださっています。
これからも南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)とお念仏(ねんぶつ)申(もう)しながらの人生(じんせい)をご一緒(いっしょ)いたしましょう。
浄満寺 井 浦 智 眼
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