浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第91集 順正寺 古海宗雄「当たり前ではない いのち」
mp3法話の第91集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第91集 「当たり前ではない いのち」 音声版ダウンロード
第91集 「当たり前ではない いのち」 PDF版ダウンロード
順正寺 古 海 宗 雄
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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第91集 「当たり前ではない いのち」 PDF版ダウンロード
順正寺 古 海 宗 雄
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第91集 「当たり前ではない いのち」
2005年、白血病のため38歳で世を去った歌手・本田美奈子さんの闘病生活を追ったドキュメント番組を観たことがありました。その中でハッとする場面がありました。彼女が歌を作る為に書き留めていたノートの言葉ですで「頬っぺたに風が当たることでことでさえ、素晴らしいことだったんだ」というと言葉でした。私でしたら、外に出て頬っぺたに風が当たっても、冷たいとか、暖かいくらいしか思えないのですが、彼女は素晴らしいと感じられた。彼女には思えて、私には思えないこの違いはなんだろうか。
それは、自分自身のいのちに真正面から向き合って生きている者とそうでない者との違いではないかと思ったのです。 彼女はご自身の病気のことを知っていましたから、あとどれくらい生きることができるのだろう?1年だろうか。半年だろうか?3ヶ月だろうか。1ヶ月だろうか? もしかすると数日のいのちだろうか。私が思いますに、彼女は朝目覚めた時は、今日も瞼を開けることが出来た。夜寝る時は、今日も1日いのちを頂けた。有難いなあ、嬉しいなと感謝の日暮をしておられたのではないかと思うのです。だからこそ、頬っぺたに風が当たることでさえ素晴らしいというと言葉となって出てきたのでしょう。元気な時は当たり前だったいのちが、当たり前ではなかったと気付かれたのだと思います。
明日があるか分からないいのちを頂いていたのは、私自身でもありました。私のいのちに明日の保証はありません。お釈迦さまのお言葉には諸行無常とあります。移り変わり何が起きても不思議ではい有難い人生を歩んでいました。阿弥陀如来の願いは、あなたの本当のいのちを生きてくださいという願いです。 わたしのいのちは、わたしが1番知っていると思いたいですが、わたしの本当のいのちに出遇うことは難しいようです。ありがとうという言葉を漢字で書くと、「有る事難し」と書きます。ですからありがとうの意味は、当たり前では無いという意味になるのです。わたしのいのちは、当たり前のいのちではなく、数えても数えきれないような、考えても考え尽くすことが出来ないような有難いいのちを頂いていました。
しかし、どうでしょう。そのような有難いいのちを頂いていると聞きながらも、怒りや貪り、愚かさに振り回され、自らを省みることがありません。人間は必ずいのち終えていく。それは、浄土真宗のみ教えに出遇われられた人も、そうでない人も同じです。どうかお念仏に出遇っておくれ真のいのちを生きておくれ。虚しい人生は送らないでおくれと南無阿弥陀佛がお念仏となりはたらきかけてくださっています。
2005年、白血病のため38歳で世を去った歌手・本田美奈子さんの闘病生活を追ったドキュメント番組を観たことがありました。その中でハッとする場面がありました。彼女が歌を作る為に書き留めていたノートの言葉ですで「頬っぺたに風が当たることでことでさえ、素晴らしいことだったんだ」というと言葉でした。私でしたら、外に出て頬っぺたに風が当たっても、冷たいとか、暖かいくらいしか思えないのですが、彼女は素晴らしいと感じられた。彼女には思えて、私には思えないこの違いはなんだろうか。
それは、自分自身のいのちに真正面から向き合って生きている者とそうでない者との違いではないかと思ったのです。 彼女はご自身の病気のことを知っていましたから、あとどれくらい生きることができるのだろう?1年だろうか。半年だろうか?3ヶ月だろうか。1ヶ月だろうか? もしかすると数日のいのちだろうか。私が思いますに、彼女は朝目覚めた時は、今日も瞼を開けることが出来た。夜寝る時は、今日も1日いのちを頂けた。有難いなあ、嬉しいなと感謝の日暮をしておられたのではないかと思うのです。だからこそ、頬っぺたに風が当たることでさえ素晴らしいというと言葉となって出てきたのでしょう。元気な時は当たり前だったいのちが、当たり前ではなかったと気付かれたのだと思います。
明日があるか分からないいのちを頂いていたのは、私自身でもありました。私のいのちに明日の保証はありません。お釈迦さまのお言葉には諸行無常とあります。移り変わり何が起きても不思議ではい有難い人生を歩んでいました。阿弥陀如来の願いは、あなたの本当のいのちを生きてくださいという願いです。 わたしのいのちは、わたしが1番知っていると思いたいですが、わたしの本当のいのちに出遇うことは難しいようです。ありがとうという言葉を漢字で書くと、「有る事難し」と書きます。ですからありがとうの意味は、当たり前では無いという意味になるのです。わたしのいのちは、当たり前のいのちではなく、数えても数えきれないような、考えても考え尽くすことが出来ないような有難いいのちを頂いていました。
しかし、どうでしょう。そのような有難いいのちを頂いていると聞きながらも、怒りや貪り、愚かさに振り回され、自らを省みることがありません。人間は必ずいのち終えていく。それは、浄土真宗のみ教えに出遇われられた人も、そうでない人も同じです。どうかお念仏に出遇っておくれ真のいのちを生きておくれ。虚しい人生は送らないでおくれと南無阿弥陀佛がお念仏となりはたらきかけてくださっています。
順正寺 古 海 宗 雄
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