浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第96集 法傅寺 松尾明宏 「聞くということ」
mp3法話の第96集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第96集 「聞くということ」 音声版ダウンロード
第96集 「聞くということ」 PDF版ダウンロード
法傅寺 松 尾 明 宏
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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仏様のおはなし新シリーズ 第96集 「聞くということ」 音声版ダウンロード
第96集 「聞くということ」 PDF版ダウンロード
法傅寺 松 尾 明 宏
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第96集 「聞くということ」
浄土真宗のみ教えを聞くということは、人格向上のために聞くことではありません。ましてや、知識を充たすためだけに聞くことでもありません。その本意は自分を明らかにするためのものです。そのために聞かせていただくことなのだということを、よくよく承知しなければならないと思います。
ご法事をさせていただいた時に「今日は良いお話を聞かせていただきました」と言われることがあります。
私自身「良いお話をさせていただく」ために法話をしたことは一度もありません。人の悲しみを誘うような話、人の心の表面上に響く話。そんな話ではなく、ともにお釈迦様や親鸞聖人のみ教えを聞かせていただき、限りあるいのちを持ったともがらとしてお話をさせていただいています。
いわゆる良い話と捉えて法話を聞くかぎりは、人格向上のための話、煩悩がなくなるための話なのでありましょう。
聞法することは「なれぬ」私であったということを知らせていく歩みです。「できるだけ我を出さないようにして、ちょっとしたことにも腹を立てることもなく、あまり欲深い生き方をせず、心豊かに生きていたい」と心密かに思っていますが、それはとても難しいことです。
老いぬれば 心のどかにありえんと思いたりけり あやまりなりき
歌人窪田空穂さんが九十歳の時の歌です。この方は真摯なキリスト教の方だったと聞かされています。おそらくキリストの教えを信仰しての生活ですから、老年になっても、心おだやかに日々を送ることができると思っておられたことでしょう。それが現実では全くそうではなく、こんなはずではなかった、と我が身を省みられたところから生まれた歌なのでしょう。我が身をごまかさなかったからこその歌なのだと思います。
親鸞聖人も同じく露骨なまでに
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず
と、『一念多念文意』の中でさらけだしておられます。無明煩悩が身に充満している。いや、煩悩の海にこの身が木の葉のように浮いている。我が身のあり様を知らされざるをえないのが聞法なのです。
親鸞聖人ほど自らを「救われざるわが身」と受けとめられた方はいないと思います。だからこそ、「たすけんとおぼしめしたちける本願」を、かたじけなくいただける身になられたのでしょう。
浄土真宗のみ教えを聞くということは、人格向上のために聞くことではありません。ましてや、知識を充たすためだけに聞くことでもありません。その本意は自分を明らかにするためのものです。そのために聞かせていただくことなのだということを、よくよく承知しなければならないと思います。
ご法事をさせていただいた時に「今日は良いお話を聞かせていただきました」と言われることがあります。
私自身「良いお話をさせていただく」ために法話をしたことは一度もありません。人の悲しみを誘うような話、人の心の表面上に響く話。そんな話ではなく、ともにお釈迦様や親鸞聖人のみ教えを聞かせていただき、限りあるいのちを持ったともがらとしてお話をさせていただいています。
いわゆる良い話と捉えて法話を聞くかぎりは、人格向上のための話、煩悩がなくなるための話なのでありましょう。
聞法することは「なれぬ」私であったということを知らせていく歩みです。「できるだけ我を出さないようにして、ちょっとしたことにも腹を立てることもなく、あまり欲深い生き方をせず、心豊かに生きていたい」と心密かに思っていますが、それはとても難しいことです。
老いぬれば 心のどかにありえんと思いたりけり あやまりなりき
歌人窪田空穂さんが九十歳の時の歌です。この方は真摯なキリスト教の方だったと聞かされています。おそらくキリストの教えを信仰しての生活ですから、老年になっても、心おだやかに日々を送ることができると思っておられたことでしょう。それが現実では全くそうではなく、こんなはずではなかった、と我が身を省みられたところから生まれた歌なのでしょう。我が身をごまかさなかったからこその歌なのだと思います。
親鸞聖人も同じく露骨なまでに
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず
と、『一念多念文意』の中でさらけだしておられます。無明煩悩が身に充満している。いや、煩悩の海にこの身が木の葉のように浮いている。我が身のあり様を知らされざるをえないのが聞法なのです。
親鸞聖人ほど自らを「救われざるわが身」と受けとめられた方はいないと思います。だからこそ、「たすけんとおぼしめしたちける本願」を、かたじけなくいただける身になられたのでしょう。
法傅寺 松 尾 明 宏
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