浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第98集 正覚寺 賞雅曜哲「是山和上(これやまわじょう)」
mp3法話の第98集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第98集 「是山和上(これやまわじょう)」 音声版ダウンロード
第98集 「是山和上(これやまわじょう)」 PDF版ダウンロード
正覚寺 賞 雅 曜 哲
◎広報部
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正覚寺 賞 雅 曜 哲
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第98集 「是山和上(これやまわじょう)」
一月より歎異抄を読む会を始めました。少しずつですが、親鸞聖人の言葉を味わってまいりたいと思っています。歎異抄(たんにしょう)の第一条に「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし(抜粋)」という言葉がございます。阿弥陀様のお救いは、老いも若いも、善人も悪人も一切問わない。ただ信心だけが大切なのだ、ということです。
このように聞くと「あの老人も若い人も、あの善人も悪人も」と私たちは仏さまの救いの目当てを外側に探してしまいがちです。私の恩師は「善人・悪人を外側に探す必要はないよ。この文章はね、良い時の私も悪い時の私も、私がどのような状況であっても決して見捨てない仏様だ、と、そう味わうんだ」と教えてくださいました。
むかし是山恵覚(これやまえかく)和上(1857~1931)という学徳兼備(がくとくけんび)の素晴らしい僧侶がおられました(「和上」とは浄土真宗の素晴らしい僧侶の尊称です)。しかし是山和上も晩年、認知症になられ、毎日お勤めしていたお正信偈すら「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)、…?」と二句目が出なくなられたそうです。
介護疲れもあったのでしょうか、奥さまがご本人にこぼされたそうです。
「昔はあんなに素晴らしい和上さんだったのに、 いまではお正信偈(しょうしんげ)も忘れてしもうて…」
それを聞いた是山和上は仰ったそうです。
「わしが忘れても、仏さまが忘れてくださらんけえ、 大丈夫じゃのう。」
私たちは、安らぎとは確かなものをつかむことだと考えてしまいます。また私の心に強い信念が生まれることだと考えがちです。
是山和上の一言は、私が確かになるのではなく、不確かな私にこそ届いている仏様のお慈悲があるのだと教えてくださっています。不確かであることと、安らぎが相反しないのが浄土真宗の世界です。
不安なら不安なまま、悲しみは悲しみとしてあるままに安心していける世界がある。不安や悲しみがあればこそ、いよいよ私を目当てとした救いがあると、そう味わっていくのが浄土真宗の法の喜びです。今この瞬間、私を包む慈悲の光がある。そのことを計らいなく聞き受けること、これを「他力の信心」と申します。
一月より歎異抄を読む会を始めました。少しずつですが、親鸞聖人の言葉を味わってまいりたいと思っています。歎異抄(たんにしょう)の第一条に「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし(抜粋)」という言葉がございます。阿弥陀様のお救いは、老いも若いも、善人も悪人も一切問わない。ただ信心だけが大切なのだ、ということです。
このように聞くと「あの老人も若い人も、あの善人も悪人も」と私たちは仏さまの救いの目当てを外側に探してしまいがちです。私の恩師は「善人・悪人を外側に探す必要はないよ。この文章はね、良い時の私も悪い時の私も、私がどのような状況であっても決して見捨てない仏様だ、と、そう味わうんだ」と教えてくださいました。
むかし是山恵覚(これやまえかく)和上(1857~1931)という学徳兼備(がくとくけんび)の素晴らしい僧侶がおられました(「和上」とは浄土真宗の素晴らしい僧侶の尊称です)。しかし是山和上も晩年、認知症になられ、毎日お勤めしていたお正信偈すら「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)、…?」と二句目が出なくなられたそうです。
介護疲れもあったのでしょうか、奥さまがご本人にこぼされたそうです。
「昔はあんなに素晴らしい和上さんだったのに、 いまではお正信偈(しょうしんげ)も忘れてしもうて…」
それを聞いた是山和上は仰ったそうです。
「わしが忘れても、仏さまが忘れてくださらんけえ、 大丈夫じゃのう。」
私たちは、安らぎとは確かなものをつかむことだと考えてしまいます。また私の心に強い信念が生まれることだと考えがちです。
是山和上の一言は、私が確かになるのではなく、不確かな私にこそ届いている仏様のお慈悲があるのだと教えてくださっています。不確かであることと、安らぎが相反しないのが浄土真宗の世界です。
不安なら不安なまま、悲しみは悲しみとしてあるままに安心していける世界がある。不安や悲しみがあればこそ、いよいよ私を目当てとした救いがあると、そう味わっていくのが浄土真宗の法の喜びです。今この瞬間、私を包む慈悲の光がある。そのことを計らいなく聞き受けること、これを「他力の信心」と申します。
正覚寺 賞 雅 曜 哲
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