浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第99集 善照寺衆徒 七里誓路「声に姿はなけれども」
mp3法話の第99集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第99集 「声に姿はなけれども」 音声版ダウンロード
第99集 「声に姿はなけれども」 PDF版ダウンロード
善照寺衆徒 七 里 誓 路
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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善照寺衆徒 七 里 誓 路
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第99集 「声に姿はなけれども」
うちでは3歳になるマシューという犬を飼っています。たまに近所に散歩に行くのですが、家へ帰る際に通る道で、いつも同じことが起こります。どこからともなく別の犬が吠えるのです。近くの家で飼われている犬が、マシューの気配を察して警戒しているのでしょう。しかし、どこを見てもその吠えている犬の姿は見当たらないのです。どこにも姿は見えないのですが、たしかにそこに他の犬がいることは分かります。
わたしはふと、阿弥陀さまに似ているな、と思いました。阿弥陀さまという仏さまは本来どんな仏さまなのですか、と親鸞聖人にお尋ねしますと、「色もない、形もない、私の心で考えることもできず、言葉で言い表すこともできない仏さま」とおっしゃいます。まるで空気のような仏さまです。しかし、そんな仏さまだったならば、私のほうから知ることもできないし、見ることもできないし、拝むこともできません。接点がまるでありません。
そこで、阿弥陀さまは長い間考えられました。私の想像を遥かに超えた、長い長い間考えられて、一つの答えがでました。「よし!聞こえる仏になろう!」と。「南無阿弥陀仏」という言葉の、声の、仏さまになることを選ばれました。阿弥陀さまの方から姿を変えられて、私の耳に南無阿弥陀仏と聞こえ、私の口から南無阿弥陀仏とこぼれ出る仏さまになられました。
とても不思議な話ですが、「南無阿弥陀仏」という言葉が阿弥陀さまそのものだというのです。一度お念仏をしてみてください。耳に阿弥陀さまが入ってきました。口から阿弥陀さまが出てきてくださいました。お腹が空いた時に「ご飯」と言っても、お腹は満たされません。夏の暑い日に、「クーラー」と言っても涼しくはなりません。しかし、「南無阿弥陀仏」とお称えすると、そこに阿弥陀さまがご一緒くださいます。お念仏を申すということは、私が一人ぼっちじゃない、ということです。いつでも、どこでも、そして今、ここに阿弥陀さまがご一緒くださいます。
最後に、広島にいらっしゃいました高松悟峰(1866~1939)という先生のお歌を紹介させていただきます。
声に姿はなけれども 声のまんまが仏なり 仏は声のお六字と 姿を変えてわれにくる
うちでは3歳になるマシューという犬を飼っています。たまに近所に散歩に行くのですが、家へ帰る際に通る道で、いつも同じことが起こります。どこからともなく別の犬が吠えるのです。近くの家で飼われている犬が、マシューの気配を察して警戒しているのでしょう。しかし、どこを見てもその吠えている犬の姿は見当たらないのです。どこにも姿は見えないのですが、たしかにそこに他の犬がいることは分かります。
わたしはふと、阿弥陀さまに似ているな、と思いました。阿弥陀さまという仏さまは本来どんな仏さまなのですか、と親鸞聖人にお尋ねしますと、「色もない、形もない、私の心で考えることもできず、言葉で言い表すこともできない仏さま」とおっしゃいます。まるで空気のような仏さまです。しかし、そんな仏さまだったならば、私のほうから知ることもできないし、見ることもできないし、拝むこともできません。接点がまるでありません。
そこで、阿弥陀さまは長い間考えられました。私の想像を遥かに超えた、長い長い間考えられて、一つの答えがでました。「よし!聞こえる仏になろう!」と。「南無阿弥陀仏」という言葉の、声の、仏さまになることを選ばれました。阿弥陀さまの方から姿を変えられて、私の耳に南無阿弥陀仏と聞こえ、私の口から南無阿弥陀仏とこぼれ出る仏さまになられました。
とても不思議な話ですが、「南無阿弥陀仏」という言葉が阿弥陀さまそのものだというのです。一度お念仏をしてみてください。耳に阿弥陀さまが入ってきました。口から阿弥陀さまが出てきてくださいました。お腹が空いた時に「ご飯」と言っても、お腹は満たされません。夏の暑い日に、「クーラー」と言っても涼しくはなりません。しかし、「南無阿弥陀仏」とお称えすると、そこに阿弥陀さまがご一緒くださいます。お念仏を申すということは、私が一人ぼっちじゃない、ということです。いつでも、どこでも、そして今、ここに阿弥陀さまがご一緒くださいます。
最後に、広島にいらっしゃいました高松悟峰(1866~1939)という先生のお歌を紹介させていただきます。
声に姿はなけれども 声のまんまが仏なり 仏は声のお六字と 姿を変えてわれにくる
善照寺衆徒 七 里 誓 路
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