浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
浄土真宗本願寺派 福岡組(ふくおかそ)の情報配信所へようこそ。
新mp3法話 第103集 徳栄寺 大野道雄「共感」
mp3法話の第103集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第103集 「共 感」 音声版ダウンロード
第103集 「共 感」 PDF版ダウンロード
徳栄寺 大 野 道 雄
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第103集 「共 感」 音声版ダウンロード
第103集 「共 感」 PDF版ダウンロード
徳栄寺 大 野 道 雄
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第103集 「共 感」
かなり昔のことになるのでしょうか。人間が集団で生活を始めるようになった頃、他人に共感する能力を身につけたそうです。その一つの表れとして、赤ん坊を他人に預けて世話してもらうということも始まったそうです。そのことをある報道で聞いたとき、驚きにも近い感情に支配されました。
そこにおいては、淋しそうにしている仲間に「一緒にいるよ」と合図を発することもあったでしょう。私自身、他人のしあわせに思わず貰泣きする経験がありますが、そのような感情が私のなかに、遠い昔から用意されていたというのでしょう。
想像もつかないくらい遠い過去に阿弥陀という仏がお出ましになりました。すべてのいのちあるものを救うという願いを発された仏です。そして今も阿弥陀仏は私どものうえにはたらいてくださっています。その願いは四十八あり、その最初に、地獄・餓鬼・畜生が無いようにとの願いがあります。
地獄は孤立、餓鬼は渇き、畜生は従属と表現してみたいと思います。人々が、孤立の淋しさに追いやられ、渇きの苦しみに苛(さいな)まれ、従属に怯(おび)えて暮らしている現実に目を向けてくださったと受け止めたいことです。そのようなことが無いようにとの願いです。
同時に、他者を撥ね退け、不足に苛立ちを募らせて他のものを奪い取り、他者を従属させることの無いようにとの願いでもあると受け止めます。それは、人間の罪深さを教えるものでもあるのです。
この阿弥陀仏の願いをいただくとき、私の生き様はというと、孤立する人に気づかず、個人的な欲に支配され、弱者に冷たく強者に阿(おもね)るものと知らされます。遠い昔から用意されていたはずの「共感」という感情を、私は一体何処に置いてきてしまったのでしょうか。置いてきたところが何処かも分からずに生きている、底が見えないくらいの深い闇を抱えている存在なのでしょう。改めて、「共感」という言葉の深い中身を問いたいと思います。
かなり昔のことになるのでしょうか。人間が集団で生活を始めるようになった頃、他人に共感する能力を身につけたそうです。その一つの表れとして、赤ん坊を他人に預けて世話してもらうということも始まったそうです。そのことをある報道で聞いたとき、驚きにも近い感情に支配されました。
そこにおいては、淋しそうにしている仲間に「一緒にいるよ」と合図を発することもあったでしょう。私自身、他人のしあわせに思わず貰泣きする経験がありますが、そのような感情が私のなかに、遠い昔から用意されていたというのでしょう。
想像もつかないくらい遠い過去に阿弥陀という仏がお出ましになりました。すべてのいのちあるものを救うという願いを発された仏です。そして今も阿弥陀仏は私どものうえにはたらいてくださっています。その願いは四十八あり、その最初に、地獄・餓鬼・畜生が無いようにとの願いがあります。
地獄は孤立、餓鬼は渇き、畜生は従属と表現してみたいと思います。人々が、孤立の淋しさに追いやられ、渇きの苦しみに苛(さいな)まれ、従属に怯(おび)えて暮らしている現実に目を向けてくださったと受け止めたいことです。そのようなことが無いようにとの願いです。
同時に、他者を撥ね退け、不足に苛立ちを募らせて他のものを奪い取り、他者を従属させることの無いようにとの願いでもあると受け止めます。それは、人間の罪深さを教えるものでもあるのです。
この阿弥陀仏の願いをいただくとき、私の生き様はというと、孤立する人に気づかず、個人的な欲に支配され、弱者に冷たく強者に阿(おもね)るものと知らされます。遠い昔から用意されていたはずの「共感」という感情を、私は一体何処に置いてきてしまったのでしょうか。置いてきたところが何処かも分からずに生きている、底が見えないくらいの深い闇を抱えている存在なのでしょう。改めて、「共感」という言葉の深い中身を問いたいと思います。
徳栄寺 大 野 道 雄
Comment
コメントの投稿
Track Back

Copyright © 浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所. all rights reserved.
Template by はじめてのブログデザイン
はじめてのブログ作成