浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第114集 法傳寺 松尾明宏 「如是我聞」
mp3法話の第114集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第114集 「如是我聞」 音声版ダウンロード
第114集「如是我聞」 PDF版ダウンロード
法傳寺 松 尾 明 宏
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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第114集「如是我聞」 PDF版ダウンロード
法傳寺 松 尾 明 宏
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第114集 「如是我聞」
お経は、「如是我聞」ということばで始まります。すべてのお経がそうかと言われると、確かめたことがありませんので、わかりません。しかし浄土真宗の拠り所となる経典『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』については、「如是我聞」あるいは「我聞如是」で始まります。どちらにしても意味は同じです。
「如是我聞」は「このように私は聞かせていただきました」という意味です。何を聞かせていただいたかというと、お釈迦さまが説法された内容について、私はこのように聞かせていただいたということです。
昔、インドの国には文字がなかったので、お釈迦さまが説法された内容を書き留めることができませんでした。お釈迦さまの説法を聞いていた、たくさんの人の中には記憶力のいい人もいて、話された内容を覚えていました。そういう人たちが、あちらこちらで人々にお釈迦さまの説法の内容を語り伝えていきました。
お釈迦さまが亡くなられて何年かの後、そういう人たちが集まって、何回も説法の内容を語り合い、記憶違いなどを訂正し、統一しました。そしてお釈迦さまの説法の内容を人々に語り伝えていったのです。
やがてインドに文字ができ、お釈迦さまの説法が書き留められるようになりました。そのときに、お経の最初には、「私はこのように聞かせていただきました」と書かれたのです。
「如是我聞」で始まるお経を見たり聞いたりしたときに、何千年か前に語られたお話だと受け取ると、単なるお話で終わってしまいます。そのときに、いいことが書いてあるとか、難しいことが書いてあるなどの感想は持つでしょうが、私を救うものとはなりません。
お経を読むことも、理解することも、なかなか簡単にできるものではありません。直接読んでもわからないことが多くあって、以前から法話という形で、比較的やさしく仏法について語られています。
法話を聞くことは仏法を理解する助けとなります。聞きなれないうちは、ことばも難しく、意味もわかりません。何度か聞いているうちに、そのことばが自然と頭に入ってきます。しかしそうすると、頭で理解するようになります。仏法が知識になってしまいます。
そこには「私」が入っていませんから、私の問題を解決する力とはなりにくいのです。「私」ということを抜きにして法話を聞くと、仏法が他人事になってしまいます。仏法を他人事にせず、私が聞くこと、お経の教えを私の身で受け止めることが大切です。
とはいえ、法話の内容は私の問題と一致しないことが多くあります。
たとえば『阿弥陀経』には「舎利弗」の名がたびたび出てくるように、お釈迦さまがその人に向けて説法されたからです。その説法を他の人々も語り継ぎ、聞き続けてきました。説法の内容はかならずしもそれぞれの人の問題とぴったり一致しなかったでしょうが、それぞれの人が自身の問題として受け止めていったのではないでしょうか。
お経の初めには、すでに何千年も前から「如是我聞(私はこのように聞かせていただきました)」と、「私」を中心に据えた聞き方が示されているのです。
お経は、「如是我聞」ということばで始まります。すべてのお経がそうかと言われると、確かめたことがありませんので、わかりません。しかし浄土真宗の拠り所となる経典『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』については、「如是我聞」あるいは「我聞如是」で始まります。どちらにしても意味は同じです。
「如是我聞」は「このように私は聞かせていただきました」という意味です。何を聞かせていただいたかというと、お釈迦さまが説法された内容について、私はこのように聞かせていただいたということです。
昔、インドの国には文字がなかったので、お釈迦さまが説法された内容を書き留めることができませんでした。お釈迦さまの説法を聞いていた、たくさんの人の中には記憶力のいい人もいて、話された内容を覚えていました。そういう人たちが、あちらこちらで人々にお釈迦さまの説法の内容を語り伝えていきました。
お釈迦さまが亡くなられて何年かの後、そういう人たちが集まって、何回も説法の内容を語り合い、記憶違いなどを訂正し、統一しました。そしてお釈迦さまの説法の内容を人々に語り伝えていったのです。
やがてインドに文字ができ、お釈迦さまの説法が書き留められるようになりました。そのときに、お経の最初には、「私はこのように聞かせていただきました」と書かれたのです。
「如是我聞」で始まるお経を見たり聞いたりしたときに、何千年か前に語られたお話だと受け取ると、単なるお話で終わってしまいます。そのときに、いいことが書いてあるとか、難しいことが書いてあるなどの感想は持つでしょうが、私を救うものとはなりません。
お経を読むことも、理解することも、なかなか簡単にできるものではありません。直接読んでもわからないことが多くあって、以前から法話という形で、比較的やさしく仏法について語られています。
法話を聞くことは仏法を理解する助けとなります。聞きなれないうちは、ことばも難しく、意味もわかりません。何度か聞いているうちに、そのことばが自然と頭に入ってきます。しかしそうすると、頭で理解するようになります。仏法が知識になってしまいます。
そこには「私」が入っていませんから、私の問題を解決する力とはなりにくいのです。「私」ということを抜きにして法話を聞くと、仏法が他人事になってしまいます。仏法を他人事にせず、私が聞くこと、お経の教えを私の身で受け止めることが大切です。
とはいえ、法話の内容は私の問題と一致しないことが多くあります。
たとえば『阿弥陀経』には「舎利弗」の名がたびたび出てくるように、お釈迦さまがその人に向けて説法されたからです。その説法を他の人々も語り継ぎ、聞き続けてきました。説法の内容はかならずしもそれぞれの人の問題とぴったり一致しなかったでしょうが、それぞれの人が自身の問題として受け止めていったのではないでしょうか。
お経の初めには、すでに何千年も前から「如是我聞(私はこのように聞かせていただきました)」と、「私」を中心に据えた聞き方が示されているのです。
法傳寺 松 尾 明 宏
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