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新mp3法話 第122集 妙泉寺 木村紹子 「有無の邪見とは」
mp3法話の第122集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第122集 「有無の邪見とは」 音声版ダウンロード
第122集「有無の邪見とは」 PDF版ダウンロード
妙泉寺 木 村 紹 子
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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第122集「有無の邪見とは」 PDF版ダウンロード
妙泉寺 木 村 紹 子
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第122集 「有無の邪見とは」
私は以前、友人から「亡くなった人の魂は、あるか、ないか」と尋ねられた事があります。
その時は、亡くなったら仏様の世界に戻るのではないかなと答えました。それ以来、今更ながらいのちの有る無しについてぼんやり考えていました。
親鸞聖人が記された正信偈の中に、釈尊がはるか以前から龍樹菩薩という方の成される事を予告されていたという箇所があります。
龍樹大士出於世 南インドに偉大な龍樹菩薩が現れ
悉能摧破有無見 有無の見にとらわれて真実を覆ってしまう考えを打ち砕くだろう
という意味です
ここで親鸞聖人は、龍樹菩薩が、あるとなしの考えに縛られた見方を打ち砕いた、とお讃えになっています。有の見では、「人は死んでも魂が残ると考え、死んだら自分はどうなるのだろう」という恐怖に陥れます。反対に、無の見では「死んだら終わり。生きてきた意味さえも無になるのか・・」と考えてしまいます。ここで人間の迷いは有無のどちらかに執着していることに起因しているのだと教えてくださっています。ということは、「魂があれば戻ってくるのか、逆に死んだら何もないのか」という有る無しの考えでは苦しみは変わらないことになります。そして、こう続きます。
宣説大乗無上法 大きな乗り物のように人を真の救いに至らせるこの上ない法を説き
初歓喜地生安楽 身心に喜びの失せない生活をし、安らぐさとりの地に生まれさせてくれるだろう
いのちが自律して生きるのではなく、無数の縁や因によって、仮に今、わたしとして存在しているにすぎないことを教えてくださいます。私たちはすぐそのことを忘れてしまいますが、そう考えると大変絶妙な条件が複数相互依存し合っている不可思議さやすばらしさに満ちた世界であることを思わずにはいられません。
私たちが、「有る/無し」の「生きる/死ぬ」の苦しみから救われるということは、究極のところ、阿弥陀如来のおはたらきにまかせることだよと教えてくださっているのではないでしょうか。
私は以前、友人から「亡くなった人の魂は、あるか、ないか」と尋ねられた事があります。
その時は、亡くなったら仏様の世界に戻るのではないかなと答えました。それ以来、今更ながらいのちの有る無しについてぼんやり考えていました。
親鸞聖人が記された正信偈の中に、釈尊がはるか以前から龍樹菩薩という方の成される事を予告されていたという箇所があります。
龍樹大士出於世 南インドに偉大な龍樹菩薩が現れ
悉能摧破有無見 有無の見にとらわれて真実を覆ってしまう考えを打ち砕くだろう
という意味です
ここで親鸞聖人は、龍樹菩薩が、あるとなしの考えに縛られた見方を打ち砕いた、とお讃えになっています。有の見では、「人は死んでも魂が残ると考え、死んだら自分はどうなるのだろう」という恐怖に陥れます。反対に、無の見では「死んだら終わり。生きてきた意味さえも無になるのか・・」と考えてしまいます。ここで人間の迷いは有無のどちらかに執着していることに起因しているのだと教えてくださっています。ということは、「魂があれば戻ってくるのか、逆に死んだら何もないのか」という有る無しの考えでは苦しみは変わらないことになります。そして、こう続きます。
宣説大乗無上法 大きな乗り物のように人を真の救いに至らせるこの上ない法を説き
初歓喜地生安楽 身心に喜びの失せない生活をし、安らぐさとりの地に生まれさせてくれるだろう
いのちが自律して生きるのではなく、無数の縁や因によって、仮に今、わたしとして存在しているにすぎないことを教えてくださいます。私たちはすぐそのことを忘れてしまいますが、そう考えると大変絶妙な条件が複数相互依存し合っている不可思議さやすばらしさに満ちた世界であることを思わずにはいられません。
私たちが、「有る/無し」の「生きる/死ぬ」の苦しみから救われるということは、究極のところ、阿弥陀如来のおはたらきにまかせることだよと教えてくださっているのではないでしょうか。
妙泉寺 木 村 紹 子
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