浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第123集 妙泉寺 木村眞昭「コロナ禍の生死」
mp3法話の第123集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第123集 「コロナ禍の生死」 音声版ダウンロード
第123集「コロナ禍の生死」 PDF版ダウンロード
妙泉寺 木 村 眞 昭
◎広報部
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
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第123集「コロナ禍の生死」 PDF版ダウンロード
妙泉寺 木 村 眞 昭
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第123集 「コロナ禍の生死」
二〇二一年の春、本願寺国際センターの公開講座がオンラインで開催され、徳永一道先生が「コロナ禍の浄土真宗」というテーマで講演されました。国際センターとは、浄土真宗のみ教えを世界に発信するという大事な役割を担っている機関です。親鸞聖人のご著作を全て英語に翻訳するという大事業を、約五十年かけて数年前に完成されましたが、徳永先生は長年に亘ってその中心におられた方です。
英語圏には無い仏教用語を翻訳するわけですから様々なご苦労があったと思われます。一例としてこんな話をされました。「生死(しょうじ)とは仏教の基本的な言葉ですが、これを意味する言葉は、英語にはありません。それを Born and Die と訳したなら生と死を別ものと分けてしまうので間違ってしまいます。いろいろ話し合った挙句、Born と Die を―(ハイフン)でつないで生死の英訳としました」と話されました。おご苦労の一端です。
そのうえで徳永先生は、「この不自由なコロナ禍にあって、人が死を身近に感じているとすればそれは幸いなことですね」と、生死の身であることを忘れて生活している私たちを戒められました。更に「生死という言葉を知っている皆さんも、やはり死を生が終わった先だと考えているでしょう。そうではありません、死はいま生きている私たちの背中に貼り付いているのです。紙の表と裏のようなものです」と、だめ押しなさいました。
確かに新型コロナウィルスの蔓延によって、死を身近に感じるとともに、人間も自然界のなかの存在であったことに改めて気づいて、少しは謙虚になれたことは幸いではなかったでしょうか。
その生死を、いつを始めとするかわからないほどに繰り返してきた無始流転(むしるてん)の私に、「もう十分に苦しみ迷ってきたお前が、また同じことを繰り返そうとしているのを私は放っておけないのだよ。必ず浄土に迎えとる、我に任せよ。南無阿弥陀仏。」と呼びどおしに呼んでくださっているのが阿弥陀さまなのです。今生を迷いの最後として、ついに生死を離れる身とならせていただいたことを喜び、同時に過去の罪の歩みに気づかせていただいたこと。これこそが人間に生まれた意味だったのだと味わいます。
二〇二一年の春、本願寺国際センターの公開講座がオンラインで開催され、徳永一道先生が「コロナ禍の浄土真宗」というテーマで講演されました。国際センターとは、浄土真宗のみ教えを世界に発信するという大事な役割を担っている機関です。親鸞聖人のご著作を全て英語に翻訳するという大事業を、約五十年かけて数年前に完成されましたが、徳永先生は長年に亘ってその中心におられた方です。
英語圏には無い仏教用語を翻訳するわけですから様々なご苦労があったと思われます。一例としてこんな話をされました。「生死(しょうじ)とは仏教の基本的な言葉ですが、これを意味する言葉は、英語にはありません。それを Born and Die と訳したなら生と死を別ものと分けてしまうので間違ってしまいます。いろいろ話し合った挙句、Born と Die を―(ハイフン)でつないで生死の英訳としました」と話されました。おご苦労の一端です。
そのうえで徳永先生は、「この不自由なコロナ禍にあって、人が死を身近に感じているとすればそれは幸いなことですね」と、生死の身であることを忘れて生活している私たちを戒められました。更に「生死という言葉を知っている皆さんも、やはり死を生が終わった先だと考えているでしょう。そうではありません、死はいま生きている私たちの背中に貼り付いているのです。紙の表と裏のようなものです」と、だめ押しなさいました。
確かに新型コロナウィルスの蔓延によって、死を身近に感じるとともに、人間も自然界のなかの存在であったことに改めて気づいて、少しは謙虚になれたことは幸いではなかったでしょうか。
その生死を、いつを始めとするかわからないほどに繰り返してきた無始流転(むしるてん)の私に、「もう十分に苦しみ迷ってきたお前が、また同じことを繰り返そうとしているのを私は放っておけないのだよ。必ず浄土に迎えとる、我に任せよ。南無阿弥陀仏。」と呼びどおしに呼んでくださっているのが阿弥陀さまなのです。今生を迷いの最後として、ついに生死を離れる身とならせていただいたことを喜び、同時に過去の罪の歩みに気づかせていただいたこと。これこそが人間に生まれた意味だったのだと味わいます。
妙泉寺 木 村 眞 昭
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