浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第125集 覚永寺 栗山俊之「コロナ禍の中で」
mp3法話の第125集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第125集 「コロナ禍の中で」 音声版ダウンロード
第125集「コロナ禍の中で」 PDF版ダウンロード
覚永寺 栗 山 俊 之
◎広報部
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覚永寺 栗 山 俊 之
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第125集 「コロナ禍の中で」
私たちの社会が、新型コロナウイルスの脅威にさらされるようになって、2年半が過ぎようとしています。私の寺院でも、法要や葬儀、法事のあり方が一変しています。ご門徒の皆さまと共にある時間が減り、み教えが皆さんにしっかり伝わっているのか、実感を持つことができないという感じで、これではいけないと思いつつも、まさに新型コロナウイルスに振り回されながら日々過ごしてしまっているなあと反省しているところです。本来ならば、このような時だからこそ、どう生きなければならないか、どのような社会を目指すべきか、じっくり、深く考えてみるべきなのでしょう。
釈尊は、生老病死を「四苦」と見ました。仏教でいう苦とは「思い通りにならない」ということです。生老病死、生まれることも、老いることも、病に罹ることも、死ぬことも、何一つ私たちの思い通りにはならない。いくら病に罹りたくないと思っても、罹ってしまう。釈尊は思い通りにならないことを思い通りにしようとすることを執着・煩悩・我執と捉えました。そしてそれを制する教えを仏教としてお説きになられました。
しかしながら私たちの社会では、新型コロナウイルスの拡がりと共に、分断、排除、差別が起こりました。思い出してみてください。連日、報道されていた医療従事者やその家族に対する誹謗中傷。飲食店へ営業自粛を強要し、嫌がらせの張り紙を貼ったり、店舗・個人の情報を拡散し攻撃する「自粛警察」が問題になっていました。さらには、感染者が出た家への投石や、県外ナンバーの車に傷をつけるなどの事件も起こりました。しかし、もちろん、こうした分断、排除、差別によって、感染を防げるわけではありません。
ここで、親鸞聖人が88歳の時にしたためられた、手紙をご紹介したいと思います。読んでみます。「なによりも、去年・今年、老少男女、おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんとこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ」。今の言葉にすれば、「何よりも、去年から今年にかけて、老若男女を問わず、多くの人びとが亡くなったことは、本当に悲しいことです。けれども、命あるものは必ず死ぬという無常の道理は、すでに釈尊が詳しくお説きになっているのですから、驚かれるようなことではありません」といった意味でしょう。この時も大飢饉があったことが知られています。多くの人びとが亡くなっていきました。しかし、生も老も病も死も、すべて私の思い通りになるものではありません。それらはすべて、与えられたものなのです。生まれるということも、老いるということも、病に罹るということも、死んでいくということも、私が作った仕組みではありません。そのような仕組みを与えられて私たちはあるのです。すでに釈尊はそうお説きになられています。
にもかかわらず、私たちは、生老病死など、決して思い通りにはならないものに執着し、振り回され、悩まされ、時に自分を見失ってしまうことさえあります。新型コロナウイルス感染症による分断、排除、差別もこうした私たちのとらわれによってもたらされたということができるでしょう。コロナだけではありません。これまで何度も同じような悲劇が繰り返されてきました。ハンセン病、SARS、MERS、エイズ、肺結核、いわゆる「精神病」、天然痘、コレラ、などなど。こうした病もすべて私たちが作ったものではなく、与えられたものなのです。
そして今、与えられた新型コロナウイルスによる脅威の中で、今一度、病に向き合うとはどういうことなのか、じっくり、深く、考えたいものです。
私たちの社会が、新型コロナウイルスの脅威にさらされるようになって、2年半が過ぎようとしています。私の寺院でも、法要や葬儀、法事のあり方が一変しています。ご門徒の皆さまと共にある時間が減り、み教えが皆さんにしっかり伝わっているのか、実感を持つことができないという感じで、これではいけないと思いつつも、まさに新型コロナウイルスに振り回されながら日々過ごしてしまっているなあと反省しているところです。本来ならば、このような時だからこそ、どう生きなければならないか、どのような社会を目指すべきか、じっくり、深く考えてみるべきなのでしょう。
釈尊は、生老病死を「四苦」と見ました。仏教でいう苦とは「思い通りにならない」ということです。生老病死、生まれることも、老いることも、病に罹ることも、死ぬことも、何一つ私たちの思い通りにはならない。いくら病に罹りたくないと思っても、罹ってしまう。釈尊は思い通りにならないことを思い通りにしようとすることを執着・煩悩・我執と捉えました。そしてそれを制する教えを仏教としてお説きになられました。
しかしながら私たちの社会では、新型コロナウイルスの拡がりと共に、分断、排除、差別が起こりました。思い出してみてください。連日、報道されていた医療従事者やその家族に対する誹謗中傷。飲食店へ営業自粛を強要し、嫌がらせの張り紙を貼ったり、店舗・個人の情報を拡散し攻撃する「自粛警察」が問題になっていました。さらには、感染者が出た家への投石や、県外ナンバーの車に傷をつけるなどの事件も起こりました。しかし、もちろん、こうした分断、排除、差別によって、感染を防げるわけではありません。
ここで、親鸞聖人が88歳の時にしたためられた、手紙をご紹介したいと思います。読んでみます。「なによりも、去年・今年、老少男女、おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんとこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ」。今の言葉にすれば、「何よりも、去年から今年にかけて、老若男女を問わず、多くの人びとが亡くなったことは、本当に悲しいことです。けれども、命あるものは必ず死ぬという無常の道理は、すでに釈尊が詳しくお説きになっているのですから、驚かれるようなことではありません」といった意味でしょう。この時も大飢饉があったことが知られています。多くの人びとが亡くなっていきました。しかし、生も老も病も死も、すべて私の思い通りになるものではありません。それらはすべて、与えられたものなのです。生まれるということも、老いるということも、病に罹るということも、死んでいくということも、私が作った仕組みではありません。そのような仕組みを与えられて私たちはあるのです。すでに釈尊はそうお説きになられています。
にもかかわらず、私たちは、生老病死など、決して思い通りにはならないものに執着し、振り回され、悩まされ、時に自分を見失ってしまうことさえあります。新型コロナウイルス感染症による分断、排除、差別もこうした私たちのとらわれによってもたらされたということができるでしょう。コロナだけではありません。これまで何度も同じような悲劇が繰り返されてきました。ハンセン病、SARS、MERS、エイズ、肺結核、いわゆる「精神病」、天然痘、コレラ、などなど。こうした病もすべて私たちが作ったものではなく、与えられたものなのです。
そして今、与えられた新型コロナウイルスによる脅威の中で、今一度、病に向き合うとはどういうことなのか、じっくり、深く、考えたいものです。
覚永寺 栗 山 俊 之
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