浄土真宗本願寺派 福岡組 情報配信所
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新mp3法話 第128集 覚永寺 栗山俊之「”人間の生存諸状況の最下限”と仏教」
mp3法話の第128集をお届けいたします。
MP3形式で3MB程度(3分前後)の大きさです。
タイトルをクリック下さるとダウンロードが始まります。
また、下段「PDF版ダウンロード」をクリックすると、A4版でカード風に印刷してお使いいただけるようなPDFファイルがダウンロードできます。
本記事最後、右下の「続きを読む >>」をクリックいただきますと音声と同じ法話が文字でご覧いただけます。
仏様のおはなし新シリーズ 第128集 「”人間の生存諸状況の最下限”と仏教」 音声版ダウンロード
第128集「”人間の生存諸状況の最下限”と仏教」 PDF版
覚永寺 栗 山 俊 之
◎広報部
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第128集「”人間の生存諸状況の最下限”と仏教」 PDF版
覚永寺 栗 山 俊 之
◎広報部
仏様のおはなし新シリーズ 第128集 「人間の生存諸状況の”最下限”と仏教」
今日の法話はコロナ禍の中、浄土に往生致しました、前坊守の弟、つまり私の叔父、高石史人を偲びながら、お話しさせていただきます。叔父は筑紫女学園大学に福祉系の学科が立ち上げられる際に、その中心的な教員として招かれ、以来、学生指導や研究はもちろんのこと、学長として大学運営にも尽力していました。ですから、私個人としましても、学生の時分から亡くなるまで、厳しく・丁寧に指導してもらいました。今日は、叔父の残した「“人間の生存諸状況の最下限”と仏教」という一文を紹介して、叔父が抱き続けていた思いに触れていただきたいと思います。叔父は母の里である本願寺派西嘉穂組正円寺の二男として生まれ、若い時には京都の本願寺の伝道院というところで研究員をしていました。また、龍谷大学、筑紫女学園大学と浄土真宗本願寺派に関係する大学に勤めていましたので、生涯、仏教に深く心を寄せていました。次にご紹介する文章は、その叔父が仏教のあるべき姿について簡潔に記したものです。私が自分の生きる基準に据えて大切にしている文章でもあります。そしてまた、コロナ禍の只中にある今、しっかりと心に留めておかなければならい文章だとも思っています。
近ごろ、ときおり“人間の生存諸状況の最下限”といった事態について、思いをめぐらしてみることがある。経済的なその生活の貧しさ=飢渇の極限にある人びとを想定してみる。肉体的な衰耗・痛痒=病みの極みを生きる人びとを想起する。また、肉体的・精神的な障害を重く複合的に荷負って生きる人びとを。さらにまた、その存在が誰からも必要とされていないと感じ、自らの社会的生存の意味や人間としての品位が極度に失われていると感じる=精神的飢餓の極限に希望を失って生きる人びとのことを。…そして、これらの人びとの地平から、人間の尊厳性と平等が証し立てられる原理が確立されるならば、そのような原理こそが、はじめてすべての人間の尊厳性を確保する普遍性を獲得しうるものであるだろうことを。…“人間の生存諸状況の最下限”に想定される人びと…が、自らの人間としての尊厳にめざめ、平等な人格の世界をきり拓く社会的、実践的主体へと転換される、そのような原理と展望を示すことこそ、仏教のになわねばならぬ課題でなければならない。
皆さんはこの一文をどのように受け止められますか。私には、常にそうではあるのですが、とりわけコロナ禍の今を生きる私への厳しい問い掛けのように、聞こえます。ニューノーマルと語られる新たな生活様式において、私的な生活の中に引き籠っている私たちに、“人間の生存諸状況の最下限”で打ちひしがれている人びとの姿は見えているのでしょうか。ソーシャルディスタンスがそのまま“最下限”にある人びとへの距離となっていないでしょうか。“最下限”に生きる人への「密」な思い・関わりを失ってはいないでしょうか。想像してみましょう。“最下限”に生きる人びとが、「今は誰もが皆、大変なのだから」と、「助けて」と声を挙げることを「自粛」しているのではないか、と。
仏教はすべてものの救いを掲げます。すべてのものの救いが、歴史的現実の中で語られる時、それは“最下限”に生きる人びとの中において証し立てられるものでなければなりません。最も困難な状況にある人びとに潜り込み、そこにおいてすべてのものの救いが実感されていく、今こそ、そのような仏教が求められているのではないでしょうか。
今日の法話はコロナ禍の中、浄土に往生致しました、前坊守の弟、つまり私の叔父、高石史人を偲びながら、お話しさせていただきます。叔父は筑紫女学園大学に福祉系の学科が立ち上げられる際に、その中心的な教員として招かれ、以来、学生指導や研究はもちろんのこと、学長として大学運営にも尽力していました。ですから、私個人としましても、学生の時分から亡くなるまで、厳しく・丁寧に指導してもらいました。今日は、叔父の残した「“人間の生存諸状況の最下限”と仏教」という一文を紹介して、叔父が抱き続けていた思いに触れていただきたいと思います。叔父は母の里である本願寺派西嘉穂組正円寺の二男として生まれ、若い時には京都の本願寺の伝道院というところで研究員をしていました。また、龍谷大学、筑紫女学園大学と浄土真宗本願寺派に関係する大学に勤めていましたので、生涯、仏教に深く心を寄せていました。次にご紹介する文章は、その叔父が仏教のあるべき姿について簡潔に記したものです。私が自分の生きる基準に据えて大切にしている文章でもあります。そしてまた、コロナ禍の只中にある今、しっかりと心に留めておかなければならい文章だとも思っています。
近ごろ、ときおり“人間の生存諸状況の最下限”といった事態について、思いをめぐらしてみることがある。経済的なその生活の貧しさ=飢渇の極限にある人びとを想定してみる。肉体的な衰耗・痛痒=病みの極みを生きる人びとを想起する。また、肉体的・精神的な障害を重く複合的に荷負って生きる人びとを。さらにまた、その存在が誰からも必要とされていないと感じ、自らの社会的生存の意味や人間としての品位が極度に失われていると感じる=精神的飢餓の極限に希望を失って生きる人びとのことを。…そして、これらの人びとの地平から、人間の尊厳性と平等が証し立てられる原理が確立されるならば、そのような原理こそが、はじめてすべての人間の尊厳性を確保する普遍性を獲得しうるものであるだろうことを。…“人間の生存諸状況の最下限”に想定される人びと…が、自らの人間としての尊厳にめざめ、平等な人格の世界をきり拓く社会的、実践的主体へと転換される、そのような原理と展望を示すことこそ、仏教のになわねばならぬ課題でなければならない。
皆さんはこの一文をどのように受け止められますか。私には、常にそうではあるのですが、とりわけコロナ禍の今を生きる私への厳しい問い掛けのように、聞こえます。ニューノーマルと語られる新たな生活様式において、私的な生活の中に引き籠っている私たちに、“人間の生存諸状況の最下限”で打ちひしがれている人びとの姿は見えているのでしょうか。ソーシャルディスタンスがそのまま“最下限”にある人びとへの距離となっていないでしょうか。“最下限”に生きる人への「密」な思い・関わりを失ってはいないでしょうか。想像してみましょう。“最下限”に生きる人びとが、「今は誰もが皆、大変なのだから」と、「助けて」と声を挙げることを「自粛」しているのではないか、と。
仏教はすべてものの救いを掲げます。すべてのものの救いが、歴史的現実の中で語られる時、それは“最下限”に生きる人びとの中において証し立てられるものでなければなりません。最も困難な状況にある人びとに潜り込み、そこにおいてすべてのものの救いが実感されていく、今こそ、そのような仏教が求められているのではないでしょうか。
覚永寺 栗 山 俊 之
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